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かっこいいアフリカのアメリカ人

31z56mbf4nl__sl500_aa300__2  先日、NHKで『明日に架ける橋~賛美歌になった愛の歌』を見た。番組の前半は9・11直後、この歌がアメリカで放送自粛処分だったことや、その理由、問題になった詞の部分(sail on silver girle~)が書かれた経緯などが紹介された。

後半は南アフリカとこの曲の関係を案内役の緒川たまき(美しい!!)が追っていくといった構成だったのだが、なんでも南アの人々にとっての『明日に架ける橋』は、オリジナルのサイモン&ガーファンクルではなく、アレサ・フランクリンのバージョンの方らしい。アパルトヘイトの時代、黒人たちは国営のラジオ局1つしか聞くことができず、その中でアレサのこの曲がよくかかっていたのだという。


この番組を見て私が考えたのは“歌う”という行為について。番組の中で緒川たまきがある黒人の家族を訪ねると、彼女が来た御礼にと家族中が歌いだすのである。子供も、お兄ちゃんもお姉ちゃんもお父さんもお母さんもおばあちゃんもである。皆、照れもなく踊りだしたりまでする。

 現在、私たちが歌うというと大抵はカラオケに行くことで、それもほとんどの場合が憂さ晴らしである。黒人のおばあちゃんは『アパルトヘイト政策の時代、家の中で家族で小さな声で歌った。』とコメントしていて、そういう風に希望を繋いで生きてきたのだ。緒川たまきも『歌うということが人間にとってどういう事なのか、教えられた』みたいなことを言っていて、その意味からすると、私達の日頃の“歌”はそれとはほど遠い気がする。

 と、ここまで書いて突然、思い出した風景がある。それは昔、私が東北からの出稼ぎ労働者の人たちと飯場暮らしをしていた時の夕食時の食堂の風景である。彼らは訛りを気にしてあまり外には行かず、皆、飯場の食堂で飲むのだが、勿論カラオケなどないので、皆、手拍子で毎晩歌うのである。私はその頃、毎晩付き合って、手拍子で“おとみさん”や“365歩のマーチ”や軍歌や訳のわからない猥歌を大声で歌っていた。そのうち本当に南アの人たちそっくりに泣き出す人や踊り出す人がいて、そういうふうにして皆、生きる希望?を繋いでいたのだ。

 ポール・サイモンがアパルトヘイト撤廃後の1992年に南アで行ったコンサートは文字通り歴史的なコンサートだったらしい。過激な黒人達が事務所に爆弾を投げたりして騒然とした中、彼は南アのミュージシャンたちと何箇所かのスタジアムコンサートを敢行した。名作『グレイス・ランド』を引っさげてのコンサートで、アフリカの大地でエルヴィスの聖地を詣でる親子のことを歌ったこの歌を歌うポール・サイモンはほんとうにかっこいいアメリカ人であった。

 

ぼくの旅の道連れは9才

ぼくの最初の結婚のときの息子なんだ

だけどぼくには確信できるだけの理由がある

ぼくら二人ともグレイスランドに受け入れられると!

 

 『グレイスランド』~ポール・サイモン

 

 今、ラジオやテレビからたくさんの音楽が溢れ、iPODで自由に持ち歩ける時代になったけど、あなたは最近いつ何処で歌を歌いましたか? 

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朝食(アトミック・カフェで)

 

カバーズ カバーズ

アーティスト:RCサクセション
販売元:ユニバーサルJ
発売日:2005/11/23
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 ある数字が一つの時代のムードを端的に象徴している場合がある。村上龍が小説の題名にもした“69(シックスティ・ナイン)”はその典型であろうが、同じ意味で私の場合それは“88”である。無限大マーク二つ繋がりのバカボンのパパ的脳天気さが感じられる字面のこの頃、日本はバブルの真っ只中で、皆、無理して豊かさを装っているように見える一方、かつてサブルチャーとしてかたずけられていたものが息を吹きかえしたりして、それは奇妙な日々であった。

 ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカを推し進め、ニュースは昭和天皇の下血の様子を毎日伝えていた。広瀬隆の『危険な話』が売れ、反原発の気運が盛り上がっていた。就職の内定が決まった学生達は企業に海外旅行に連れて行ってもらえたし、大人たちの多くがいたるところで株の話をしていた。アメリカ・インディアンのホピ族が部族のパスポートで来日し、佐野元春は雑誌『This』を刊行した。RCサクセションの『Covers』は発売中止になった。辻仁成のバンドエコーズは『ジャック』を歌っていて、年末にはビート最大の詩人アレン・ギンズバーグが来日した。

 この頃、私は大学四年生で、しかし、就職活動をしなかった。バンバンの『いちご白書をもう一度』(古っ!)では髪を切り、君にいいわけする年頃だったのだろうが、私は髪を切らなかったし、第一、言い訳する相手なんかいなかった。

 私は弟とゼミの友人達とで、あるイヴェントの企画に奔走していた。イヴェントは反原発のメッセージを含んだもので、ホピ族の予言を描いたドキュメンタリー映画『ホピの予言』の上映と、シンポジュウム、詩の朗読、コンサート、写真の展示を併せたもので、7時間に及ぶものであった。出演者の一人だった今は亡き詩人の諏訪優氏と何故か私が詩を読むことになり、イヴェントのテーマに相応しい詩を書かなければとあせった私は、朝いつもバイトに行く途中で立ち寄っていた喫茶店の紙ナプキンを大量に無駄にしながらこの詩を完成させたのだった。

 

 朝食(アトミック・カフェで)


にわとりの鳴き声が響く 

紫色の朝は失われ

生き残りの酔いどれが

亡霊のように漂っていく午前五時

劇的な高層建築よ

あれは何という王の墓だ?

 

迷走する始発電車は 未来と過去を紡ぎ

その中で人は

今日一日について瞑想する

 円やドル

広告のゴシップといった都市の聖句

正義という みにくいアヒルの子

神の朝食には

ここのところ毎日

毒が盛られている



窓を開け放ち

愛が始まる時のように

そんなふうに太陽は昇るべきだ

この策略の島に

まだ訪れたことのない夜明け

 地平線に座る

 マーサウ


囚われの身の農夫だ

オレンジが腐っていくのを

ダマッテミテイルシカナイ

そんな無力感が

鉄の文明を透明にする

 

50億の体を軸にして

回る巨大なオレンジ

それぞれの夢の中で

お前は何度死んだことか

青ざめて回る

巨大なオレンジよ

 

権力の着る服は黒

自由にはまとう布着れ一枚もない

だから君はいつも裸で

瞳は

イヴの誘惑の果実に注がれている

君の涙が雨になれば

幾人かの殺人者の魂は

水蒸気になって

天国に行けるかもしれない

 

止まれ世界よ

たのむから しばし 止まれ

これ以上舗道に

悲しみを溢れさすな

 

人間の形をした悪は

古代からずっと

ボタンを掛け違い続けている

科学の舞台で踊るミューズ

彼女の目の下の隈は

永遠に

取れないだろう

 

君の

タイムマシンの記憶の海辺にある

奇妙な名前のカフェテリア

ドリップするコーヒーの

 破滅への秒読みか

 

 やがて12月

一瞬、眩しい光を見た気がして

窓の外の空に

君は どんな形の雲を 想像する?

 

 友人のギターとパーカッションを伴った私のこの詩の朗読の後、諏訪さんは傑作長編詩『アメリカ』を下村誠率いるバンドの、レゲエの演奏をバックに読んだ。そのテープを一時期私は愛聴していたが、その後の東京漂流居候生活時代?の中で失くしてしまった。諏訪さんは初めてゼミの先生と仲間達と田端で会ったとき、待ち合わせ場所に風呂桶を持って現れた。商店街を一緒に歩くと魚屋のおじさんや八百屋の店員さんが皆、声をかけて来て、気恥ずかしそうに歩く諏訪さんはでも、とてもかっこよかった。

 この頃、諏訪さんは最後の詩集『太郎湯』の刊行前後だったと思う。イヴェントの後、諏訪さんにはギャラの他に銭湯のお風呂券をあげたのを覚えている。

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本日より・・・・

 本日より以前より興味があったブログを始めることにしました。私は21世紀に入ってからずっと3年連用日記を個人的につけていて、またさらに・・という気もしますが、一人で黙々と書いている日記と違ってデータベースとしても様々な点で役に立ちそうな気がするので今後、色々と試してみたいと思います。

 で、真っ先にやりたいことは昔からずっと書き溜めている詩を保存することなのです。とにかく一杯あるのですが、あまり発表することには意欲がないままきてしまったので、そのうちには失くしたり、忘れてしまったしたものも多く、ブログならweb上に残るので良いかなと思ったのです。(第三者の批評も聞けますし)。いつもいつも自分の詩ばかりを書き込むつもりはありませんが、近況と絡めて小出しにしていければと思います。まだ使い方を良く把握していませんのでしばらくはお試し期間?みたいな感じでいきたいと思います。

ピートじゃなくてビートだよ。(バッタもんです。)

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