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南の島の“じゃんがら”

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     いつか いつでもいいから 

     強い風ならば

     僕をかかえて吹き飛ばしてよ

     できれば南の方へ

               ( パーティ By 甲本 ヒロト )

 

 本当かどうか定かではないが、沖縄の言葉で“アー極楽!”って言う時“ハワイっさー”と言うらしい(たまたまネットでそう紹介している記事を見つけたんだけど、誰か正しいこと知ってる人いたら教えて下さい)。私の郷里には去年映画『フラ・ガール』で再び注目を浴びた常磐ハワイアンセンター(現スパリゾート・ハワイアンズ)があり、沖縄流の言い方を裏返せば“常磐極楽センター”ということになろうか??

 しかし、遠い昔にこのいわきから、独り南の島へ“極楽”を届けに行った人がいる。今回の帰郷で沖縄の伝統舞踊エイサーが、実はこの“いわき”発であったと聞いて、私は頭の回路がショートしてもやーんと白い煙が立ち上るほどビックらこいてしまった。

 そんな離れ業を演じたのは今から約450年前、いわきに生まれた袋中(たいちゅう)上人(1552~1639)という浄土宗のお坊さんです。戦国期から江戸初期の人で、学問に秀で、人々から感服される名僧だったそうです。

 この袋中さん(尊敬と親愛の情を込めて以下、こう呼びます。)、51歳の時、西遊記の三蔵法師と同じ志に燃えて、明(現中国)に渡り、未だ知られぬありがたいお経を持ち帰ろうと決心します。が、当時は秀吉の朝鮮出兵の影響もあり、明に着いたものの上陸が許されません。何度もトライしますが願いが叶えられぬまま、当時の琉球王国(現沖縄)に漂着します。慶長8年(1603年)のことです。

 この“ちゅらしま”で、袋中さんが言葉もよう分からんシマンチュウ達に極楽浄土の教えを広めるために故郷いわきの“じゃんがら念仏踊り”を教えたのがエイサーの始まりということらしいです。(“教えた”って一口に言うけど、きっと歌えて踊れる坊さんだったんでしょう、誰かみたいだな、この人。)

 時の琉球国王尚寧(しょうねい)王も袋中さんに深く帰依し、彼のために桂林寺なるお寺を建立したりします。この尚寧王と袋中さんには悲しいが感動的な話があって、袋中さんが島を去った数年後、琉球王国は薩摩藩から侵略されますが、王様は袋中さんから学んだ無駄な血を流してはいけないという仏教の教えを守り、城をいわゆる“無血開城”します。

 王は罪人として江戸に連れて行かれる途中、京都で袋中さんと感動の再会を果たし、その時、尚寧王が袋中さんに寄贈した宝物が、現在、京都に残されているそうです。(こういうのNHKの大河ドラマとかでやってくんないかな。いつまでも入れ替わり立ち代り“サル!”“親方サマ!”とかやってないでさ・・・)

 数年前、家族で沖縄を旅した時、エイサーを見る機会があった。踊っているのは20代位の若い男女で、テレもないその真剣な踊りからは“サイキック”なパワーが立ち上っているようで、私は軽いトランス状態に陥った。また、それからさらに数年後、私は祖母を亡くし、夏のお盆の時、地元の青年団が実家の庭先で“じゃんがら”を踊ってくれたのだが、この時も同じような感覚になった。踊り手の中には私の小中学校の同級生たちがいて、もし東京へ行かず、このいわきでずうと生きていたなら、私も一緒に踊れたかもしれないと思うと、少し人生を後悔した。

 そうか、同じだったのね。“エイサー”がクラプトンやジミヘンだとすると、“じゃんがら”はロバジョンやマディー・ウォーターズってとこかも。(例えが雑で、またロックやブルースに詳しくない人ゴメンナサイ)。

 いわきの“じゃんがら”は今も盛んで全部で100を越す団体があるらしい。しかし、“エイサー”をベースにした沖縄の音楽がワールド・ミュージックとして世界に認知されているのに比べ、“じゃんがら”は守るべき伝統芸能という域を出ず、外部の人には余り知られていない。

 この現状を打破すべく、一人行動を開始したのが、今回この話を私に教えてくれたJuce&Loveさんです。様々な顔を持つ彼はいわきと水戸のライブハウス“SONIC”の経営者でもあって、去年、“じゃんがら”をワールド・ミュージックという視点からCD化すべく、自分の店ですでに1曲レコーディングしたということです。いつか、“じゃんがら”をベースにした、レゲエのボブ・マーリイや、沖縄の喜納昌吉のようなカリスマがいわきから現れ、世界の音楽シーンをリードする日が来るかも・・・。

 写真は今年正月3日、袋中上人ゆかりの能満寺に詣で、私が撮った上人誕生の記念碑です。ああ、数キロ先にはハワイアンセンターがある。この南国の“極楽”がいわきにあるのもなんだか必然に思えてきました・・・・・・ハワイっさーてか。

 

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コメント

 お褒めの言葉ありがとうございます(笑)。なんとか今年中にはカタチにできるよう頑張ります。その時はご協力をお願いしますね。

 「じゃんがら」を漢字表記すると「自安我楽」。「自らを安じて、我を楽しむべし」という感じかな?。楽しんで念仏を唱えるって感覚は現代の仏教解釈を超えていいるね。感覚としてはポピュラーミュージックだったはず。約400年間純粋培養されてきたじゃんがらが現代の音楽にちょっとでも影響を与えられたらおもしろいんだけどね。
 

投稿: JUICE&LOVE | 2007年1月 6日 (土) 09時29分

確か6,7年間前に沖縄本島に行ったとき喜納昌吉さんのライブを見たことがあります。那覇の国際通りというところのチャクラというライブハウスです。終盤にエイサー部隊が加わりバカ明るい真剣な演奏にえらく感動しました。最後は私ほか数名の観客にマラカスやら打楽器を持たせて一緒にステージで踊れと言うので「たいこ~をたたけ~」と歌い踊りまくりました。世界的なミュージシャンなので地元ではカリスマ扱いなんだろうなと思っていた喜納さんもチャクラでは週に3,4回もライブをやっている"単なるハウスバンド”に徹していました。演奏が終わると客席に座り一緒に飲みました。何てかっこいい人なんだろうと思いました。(ウソのような実話です。)新しい世界の音楽シーンをリードするのは意外と、偉大なる"単なるハウスバンド”なのではないでしょうか。

投稿: jazz坊主 | 2007年1月 6日 (土) 22時11分

ビートルズもキャバーンのハウス・バンドみたいなもんだったのだろうから、ご指摘正しいと思います。毎日来る人をいかに飽きずに楽しませるか?といった工夫と試行錯誤の中で音楽は鍛えられていくんだろうね。
 
 昌吉さんは僕も思い出があります。このブログの一番最初のほうに書いた僕等が大学のイヴェントを企画した年、1988年の夏に、長野県の山の中で反原発のイヴェントがあった。今では一部の人に日本のウッドストックみたいに言われている伝説?のイヴェントなんだけど、10日間昼夜問わずライブがあって、水も電気も満足に無い空間に皆テント張って暮らして?いた。

 その出演者の中に喜納昌吉&チャンプルズも入っていたんだけど、昌吉さんはなんと10日間ずうと、最初から現地いて(多分)、有名無名問わず多くの人に語りかけていた(笑)。僕らもずうっといたので、段々、顔見知りじゃないけど自然に話したりするようになってきて、夜、自然食の出店のカレーを食いながら、彼の天衣無縫ともいえる沖縄論みたいな話に耳を傾けていた思い出があります。

 イヴェントの最終日、オオトリが喜納昌吉&チャンプルズだったんだけど、大雨で、スタッフも会場にいた僕らも、もうできねえなあ、という空気になった。しかし、昌吉さんは雨の中、PAもない状態のステージでサンシン一本で弾き語りを始めた。“語り”というよりそれは“叫び”で曲は“島ぐぁーソング”(ファースト・アルバム最後に入っている“島人の魂を忘れるなよ”というメッセージの名曲です)で、昌吉さんがひたすらひたすら叫び続けていると、雨が段々止んできて、ついにPAがセットされ、本格的な演奏へ・・と、奇跡のような演出。もう、あん時は本当に彼が神様に見えました。あの頃、反原発の集会&コンサートに行くと彼が必ずいて、僕は原発関係者に雇われた警備員に彼が頭突きを食らわすのを目の前で見たことがあります。彼の“花”は熱いんだよ・・・。

投稿: ナヴィ村 | 2007年1月 7日 (日) 08時24分

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