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風のサキサフォン

28  “音楽を携帯やパソコンでダウン・ロードするのが当たり前になる近い将来、ジャケットという概念はなくなるのだろうか?”

 仕事場の休憩時間中、仲間とこんな話で盛り上がった。きかっけは、とあるアルバイトの青年の『CDは大きくて邪魔。』という発言からだ。LPレコード時代の幸福を堪能した記憶が抜けない私には、CDすらが大きいと感じる世代が後続に控えている事実は、少々、面食らう。その彼は普段MDで聞いていて、また、別の一人はIpodで大量にデータを取り込み聞いている。別に、ハードの部分で誰が何で聞こうが個人の勝手なのだから良いとして、私が気になったのはそのような事態が刻々と進行していった場合、ジャケット、つまり、ビジュアルと音楽の関係はどうなっていくのだろうか、という点だ。

例えばお気に入りのアーチストがニューアルバムを発表する。しかし、未来の世界には“CD屋”などというものは無く、音楽は全てPC上でやりとりするデータになっている。曲順、という概念さえもう成立していないかもしれない。その時、今の“ジャケット”のようなヴィジュアル・アートは、音とセットで購入するような形になるのだろうか?それとも、もっと進んで、一曲ごとにPVが付いていてそれごとダウン・ロードするようになるとか。

彼曰く、CDプレイヤーにシャッフル機能がある時点で、曲順という概念は崩壊している、と言う。そうかなあ、本来の曲順を知っていて、シャッフルするのと、そうでないのとでは違う気がするけどなあ。

 でも、聞き手よりもこれは作り手にとっての方がもっと大きな問題なのかもしれない。今後は、ビジュアルをも含んだコンセプチュアル・アートとしての作品は無くなるか、それとも動画も含んだもっと大きなアートが出現するのか、私には分からない(きっと後者だと思うが)。

 さて、今日は昨日、Jazz坊主さんのコメント欄の発言の影響もあり、ジョン・コルトレーンを聞いていた。ジャズのレコード・ジャケットはカッコいいものが多い。それで、上のような心配、というか興味もしきりなわけだが、Jazz坊主さんの言うようにコルトレーンのプレイのようにこのブログにエントリーし続けるのは、私の肺活量と心肺機能では、無理と言うものだ。

でも、この『バラッド』のようになら・・・と、少しムラっときている所もあるのだが、私にはこんな崇高な“歌心”はない。

 このCDには思い出があって、私の住む町に唯一あったまともなCD屋が、ついに閉店する際、最後に買ったのがこれだった。そこのおじさんは年老いたビル・エヴァンスといった風情のおじさんで、最後の頃は自身はほんとうは硬派な音楽ファンなのに、しょうがなくモー娘を売っている、という感じだった。私はコルトレーンのこの『バラッド』は、LPで持っていたが実家に置いてきてしまい、ある夜、どうしても聞きたくなって買いに行ったのだった。

 レジでこのCDを出すと、普段、無口なおじさんが

『これ・・・・・、買って良くなかったという人、未だかつて一人もいませんでしたよ。』と、私と目を合わせないようにして言った。それで、この人、本当はジャズ・ファンなんだなあと分かった次第。

近い将来には、もう、こんなやりとりもなくなるんだな。って、今だって店員さんと、もうそんな会話無いのかも。

 

     苦悩の川を ゆっくりと流れていくとき

     あなたは 愉悦の魚に逢う

     愛に逢う

     女に 息子に 友に 神に 音楽に その聖霊に

     そして あなた自身が聖霊になる

     音楽 それ自身になる

 

 白石かずこ 『死んだジョン・コルトレーンに捧げる』より 

 

コルトレーンは41歳で死んだ。今、私41歳だけど・・・・まあ、年なんて関係ないか。今日はとても風の強い一日だった。朝、ベッドで聞き耳をたてているとぼーぼーと音がして、まるで、自然のサキサフォンのようだった。

皆さん、ジョン・コルトレーンを聞きましょう。

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