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Stone Buddha

 

金色の花粉は
静寂の中をスローモーションで
やがて
印画紙の季節に色彩を施す
強く緑が匂う森に <そこだけ明るく陽の当たる>
密やかに息づく
野生の庭園。

風の催眠術師の命によれば
私はここで石仏になり
花々の国の栄枯盛衰を
未来永劫
見続けることになるいうのだが。

地を覆う獣の群れ
その夏の性的な叫び声よ
葵の空の滴りに
鷲摑みにしたノースリーブの腕
きりもなく愛はとろけ合って
真昼のシーツ
反り返る 喉のカーブ

愉悦の草を這う 
ヒンズーの蛇よ

不滅の人の瞬きの間に間に
花は流れ 人は滅ぶ
その葉脈と
幼子の血の中に
濃い遺言の文字を刻んで。

鐘が鳴り
千年が瞬時に過ぎ去る
夕暮れの夢から醒めてもまだ
命はくっきりと私の形して大地に在る

麻酔のように夢から漂いくる
花々の香りに
祝祭のような今を
絶え間なく
葬られながら。

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風のサキサフォン

28  “音楽を携帯やパソコンでダウン・ロードするのが当たり前になる近い将来、ジャケットという概念はなくなるのだろうか?”

 仕事場の休憩時間中、仲間とこんな話で盛り上がった。きかっけは、とあるアルバイトの青年の『CDは大きくて邪魔。』という発言からだ。LPレコード時代の幸福を堪能した記憶が抜けない私には、CDすらが大きいと感じる世代が後続に控えている事実は、少々、面食らう。その彼は普段MDで聞いていて、また、別の一人はIpodで大量にデータを取り込み聞いている。別に、ハードの部分で誰が何で聞こうが個人の勝手なのだから良いとして、私が気になったのはそのような事態が刻々と進行していった場合、ジャケット、つまり、ビジュアルと音楽の関係はどうなっていくのだろうか、という点だ。

例えばお気に入りのアーチストがニューアルバムを発表する。しかし、未来の世界には“CD屋”などというものは無く、音楽は全てPC上でやりとりするデータになっている。曲順、という概念さえもう成立していないかもしれない。その時、今の“ジャケット”のようなヴィジュアル・アートは、音とセットで購入するような形になるのだろうか?それとも、もっと進んで、一曲ごとにPVが付いていてそれごとダウン・ロードするようになるとか。

彼曰く、CDプレイヤーにシャッフル機能がある時点で、曲順という概念は崩壊している、と言う。そうかなあ、本来の曲順を知っていて、シャッフルするのと、そうでないのとでは違う気がするけどなあ。

 でも、聞き手よりもこれは作り手にとっての方がもっと大きな問題なのかもしれない。今後は、ビジュアルをも含んだコンセプチュアル・アートとしての作品は無くなるか、それとも動画も含んだもっと大きなアートが出現するのか、私には分からない(きっと後者だと思うが)。

 さて、今日は昨日、Jazz坊主さんのコメント欄の発言の影響もあり、ジョン・コルトレーンを聞いていた。ジャズのレコード・ジャケットはカッコいいものが多い。それで、上のような心配、というか興味もしきりなわけだが、Jazz坊主さんの言うようにコルトレーンのプレイのようにこのブログにエントリーし続けるのは、私の肺活量と心肺機能では、無理と言うものだ。

でも、この『バラッド』のようになら・・・と、少しムラっときている所もあるのだが、私にはこんな崇高な“歌心”はない。

 このCDには思い出があって、私の住む町に唯一あったまともなCD屋が、ついに閉店する際、最後に買ったのがこれだった。そこのおじさんは年老いたビル・エヴァンスといった風情のおじさんで、最後の頃は自身はほんとうは硬派な音楽ファンなのに、しょうがなくモー娘を売っている、という感じだった。私はコルトレーンのこの『バラッド』は、LPで持っていたが実家に置いてきてしまい、ある夜、どうしても聞きたくなって買いに行ったのだった。

 レジでこのCDを出すと、普段、無口なおじさんが

『これ・・・・・、買って良くなかったという人、未だかつて一人もいませんでしたよ。』と、私と目を合わせないようにして言った。それで、この人、本当はジャズ・ファンなんだなあと分かった次第。

近い将来には、もう、こんなやりとりもなくなるんだな。って、今だって店員さんと、もうそんな会話無いのかも。

 

     苦悩の川を ゆっくりと流れていくとき

     あなたは 愉悦の魚に逢う

     愛に逢う

     女に 息子に 友に 神に 音楽に その聖霊に

     そして あなた自身が聖霊になる

     音楽 それ自身になる

 

 白石かずこ 『死んだジョン・コルトレーンに捧げる』より 

 

コルトレーンは41歳で死んだ。今、私41歳だけど・・・・まあ、年なんて関係ないか。今日はとても風の強い一日だった。朝、ベッドで聞き耳をたてているとぼーぼーと音がして、まるで、自然のサキサフォンのようだった。

皆さん、ジョン・コルトレーンを聞きましょう。

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Long good-bye 

 
 味噌を酒で溶くと
 味噌汁の味にこくが出ると
 あなたは僕に教えてくれた
 すべからく世の快楽には
 味わう前に 独自の
 ほんのもう一工夫がいるのだと

 ギャンブルが人生じゃない
 人生がギャンブルだと言う人もいるが
 勿論 人生はギャンブルではない

 ありきたりな幸福の眩さに
 誰よりも憧れ 目を瞬かせた人
 そして それに背を向けた人

 細いロープの上を大きな体で
 大股で歩いた人

 右側は平凡な天国
 左側は華麗なる地獄

 あなたがどちらの側に落ちたのかは 
 今や神のみぞ知るところ

 青年が結婚し夫となり父となるその傍らで

 あなたは何になった?
 何になれなかった?

 『お前、太ったな』と、最後にあなたは言って
 いや、余計なものを身に付けすぎたのは
 あなたの方ですと
 僕は 言えばよかったのか あの時

 あなたが消えたと知って
 初めに浮かんだのは

 レイモンド・チャンドラーの小説の中の
 この言葉

『さよならとは少しの間 死ぬこと』。

 

 これは小説『豚骨スープの湯気に別れの挨拶を』(カテゴリー『魂のラーメン!』の第1話)のモデルにもなった私の恩人が、実際にいなくなった時に書いた詩。あのラーメン屋の前を通る度、思い出す。     

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夜逃げもどき

 
       船着場にて
       櫂の柄は朽ち
       水夫(かこ)は花町
       女漁り
       逃げましょうにも
       女房 子連れじゃ
       先の長旅
       足手纏い
       向こう岸まで
       行くに
       行かれず
       月は追う追う
       夜の終わり
       浮世のことなど
       知るも面倒
       ここはひとまず
       狸寝入り
       貧しさ知らずの
       世間知らず
       川鵜泣く泣く
       夜逃げもどき

 

       川鵜泣く泣く
       夜逃げもどき

 

       玉突き場にて
       893鉄砲(ちゃか)撃ち
       間夫(まぶ)はお陀仏
       あとの祭り
       ほっかむりして
       尻は隠さず
       竿にゃ重たい
       賭場の金子
       よその国まで
       行くに
       行かれず
       サツは追う追う
       夜の帳
       政(まつりごと)など
       知るもまっぴら
       とどのつまりは
       やっぱ出入り
       掟知らずの
       命知らず
       川鵜とぶとぶ
       夜逃げもどき

 

       川鵜泣く泣く
       夜逃げもどき

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『恋愛写眞ーCollage of Our Life-』~視線

C29a6396  犬の目は色覚に乏しく、殆どモノクロームで世界を眺めているらしい。昆虫には複眼のものがいるが、彼らの見え方はさらに複雑な筈だ。人には人としての眼のメカニズムがあるから同じメカニズムを所有する者同士、同じ世界を知覚しているという共通の認識の上で普段私たちは生きている。

 しかし、と私は思う。視覚によって認識した世界を共有するなどということが果たして有り得るのだろうか?と。

 眼のメカニズムの共通性というものは確かに前提としてあるが、私たちには“視線”の違いというものは如何ともし難く、例えば同じ場所にいても個々に見ているものが違うと経験に差が出来る。盲人でない限り瞬間ごとの視線の積み重ねで私たちは何かを感じながら生きているので、つまりは、その個々の“視線”の違いこそが“その人”と言ってもいい。

 そして、その個々の視線の差異を端的に現わしてしまうものこそがカメラである。同じ公園の花壇を撮影しても、私の写真は花にピントが合って背景はぼやけているが、早いシャッタースピードで撮ったあなたの写真は蜜蜂の羽根が静止していて、花すらが背景になっているかもしれない。一度、子供にインスタント・カメラに持たせたら、私では絶対に撮らないようなアングルの面白い写真が一杯だった。

 このような違いが親と子なら微笑ましくもあるが、これがカメラマン志望の青年とその恋人、そして、カメラの知識などあまりない彼女の撮る写真の方が素晴らしかったとしたら・・・前振りが長くなってしまったが、この映画『恋愛写真』はこんな風に物語が展開してゆく。

 松田龍平が演じるのはカメラマン志望の青年誠人、そして、その彼女静流を演じるのが広末涼子である。ふとしたきっかけで静流は誠人の写真のモデルになり、やがてその撮影に付き合ううちに自らもカメラを手に取るようになる。そして、フォトグラファーとしての才能をいち早く開花させるのは皮肉にも静流の方で、愛していながら、その才能への嫉妬から誠人は彼女と別れてしまう。数年後、静流はニューヨークで個展を開くまでになるが、現実の壁に突き当たり東京で一人悶々と過ごす誠人の元に、彼女についてあるニュースがもたらされ、真偽を確かめるために彼もニューヨークへ渡る・・・・・。

 私が感心したのは誠人が静流を探す方法だ。東京に送られてきていた静流がニューヨークで撮影した写真の場所を探し、誠人は静流の視線をなぞるようにシャッターを切る。静流の視線になることは彼女に同化することだ。ニューヨークのあらゆる場所で、誠人は静流に近づくためにシャッターを切りまくる。そうする内に彼は彼女に起こった、ある事件の真相にたどり着くのだ。

 私は仕事で毎日のようにカメラを使う。今はある状況や物を撮影する記録写真なので、余りイマジネーションを問われるものではないが、それでも同じものを撮影した他の人の写真と比べて決定的な視線の違いに気づく時がある。また、その昔、人から撮影を依頼されて出来上がった写真を選ぶ時、私が気に入ったものと依頼主が気に入るものがあまりに違い過ぎて、その人と自分の相容れない部分に気づかされてしまったことがある。

 自分以外の他者と同じ視線になることは不可能だ。私達ができるのはせめて理解し合いたい他者の視線に近づく努力をするだけである。しかし、その努力の過程でお互いに気づいたことを共有することは出来る。逆にそのようにしてしか人は誰かのそばにいられないのだ。

 この映画のラスト、自分の愛した女性と共に永遠に生きる方法として、これ以上ない決断を誠人はする。どんな決断かは・・・どうか見てください(なんかこのパターンが多いね)。

 この映画、恋愛映画であると同時にサスペンスの部分もあり、その描かれ方の好き嫌いで評価が分かれると思うが、私は気にならなかった。そういったことを差し引いても、ストーリーは面白く、投げかけられているテーマも期待以上に深い。主演の二人も魅力的で、特に松田龍平は、もの静かでちょっと不気味な役を演じていた頃の父、松田優作を彷彿とさせた。

 エンド・ロールには私が大好きな山下達郎の『2000tの雨』が流れます。使われている写真もどれも素敵で、カメラを持っている人、何か撮影しに出かけたくなること間違いなしです。

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Nude

 

 獣(けだもの)の
 汗と火照りとが去った後で
 肌は
 冬の陽のように白い
 大理石の輝きを増す

 未熟から成熟
 そして腐乱へと辿る死への過程で
 こんなにも美しい時を仕掛け得て
 神は
 満足して密かにほくそ笑む

 密林を映す湖上の舟の
 息苦しく流された先で
 青年は覗き見る

 ある奇妙な生き物が
 惜しげもなく
 夜に
 命をさらけ出すのを

 

 

ある朝、物凄いシュールな夢を見て、飛び起きて書いた。私にはそんな詩がいくつもある。これはその中の一つ。ちょっとエロチックで、少し怖い夢だった・・・

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『コインロッカー・ベイビーズ』~永遠の近未来小説

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 この本は今でもラストシーンの部分だけを読むことがある。これはこの小説全般に言えることだが、氏の膨大な著作の中で最もポエジーが炸裂していて、私は特にこのラストを長編詩を読むような気持ちで読む。勿論、ストーリーを全部知っているからでもあるが、そのような読み方をするだけで何度も感動が味わえる。

 私の言うラスト・シーンとは危険物質ダチュラで都市の破壊をもくろむ主人公のキクと恋人のアネモネが250CCのオフロード・バイクで渋滞の高速道路を疾走するあたりから、その破壊された街を精神病院を抜け出したキクが彷徨い、妊婦を殺そうとし、止めるラストに至るまでである。

 この本を初めて読んだ時のことは鮮明に覚えている。高校2年の夏、高円寺のとある予備校に夏期講習を受けるために田舎から出てきていた私は、夏のアルバイトで一夏留守にしている当時大学生だった兄のアパートで過ごしていてそこで読んだ。

 田舎者だった私は受験勉強という大義名分を隠れ蓑にして東京での一人暮らしを満喫していたが、慣れない東京は心細くもあった。お金もそんなに無かったので、特に夜をどう過ごして良いか分からず、それでたまたま本屋で表紙の不思議な装画に魅かれてこの本を買い、毎晩、貪るように読んだ。本当は勉強しなければならない身分だったのに、あまりに物語に夢中になりすぎて下巻は1日予備校を休んでひたすら読み続けたのを覚えている。

 物語の主人公は赤ん坊の時、コインロッカーに遺棄されて助かった二人の青年だ。一人はやがて“ダチュラ”で都市を破壊しようとするキク、もう一人はドアーズのジム・モリソンを想起させるようなロックシンガーになるハシである。

 解説で評論家の三浦雅士氏はこの小説を“破壊”と“心臓の音探し”という二つの側面から考察を加えている。キクにとっては都市自体が自分を閉じ込める“コインローカー”そのものであり、彼の企てる破壊は自分を閉じ込めるものを突破し、そこから出て行こうとする、いわば『外部』を絶えず求めつづける意思のメタファーである。

 一方、もう一人の青年ミュージシャンになったハシは狂気に駆られながら常に一つの“音”を探し続ける。それは母親の胎内で聞いていた“心臓の音”であり、生命力の象徴でもある。

 この小説のイメージはその後、80年代後半から20世紀末の日本の様々な表現の中で、流用、再生産された。大友克洋の『アキラ』にもそれは見られるし、岡崎京子の漫画『Pink』にはこの小説のヒロイン、アネモネと同様、鰐を飼う女が出てきたりする。そのせいかこの物語をすでに古く感じるという声を、身近にいる若い友人から聞かされたことがあるが、本当にそうだろうか?

 “近未来小説”と銘打たれたこの小説が発表されたのは1980年である。物語の中でもキクやハシが生まれたのが1972年とあるから、確かに私たちはこの小説に描かれた近未来をとっくに通り越した社会に生きていることになる。

 それは“オウム事件”や9・11等のテロを経験した社会でもある。反面、サッカーの中田英寿のような古い価値を突破し、世界に出て行くヒーローが出現したりして、氏が本作品で描いたイメージやテーマは図らずも現実化してしまった部分も、また実現した部分もあるように見える。

 しかし、例えば数年前起きたイラクでの人質事件の時のような国の対応、“自己責任”とする世論の形成のされかたを目の当たりにすると、私はこの物語が全く古びていないのを感じる。

 危機に直面すると日本人は必ず内部を囲い込み、右傾化をすすめ、決して『外部』に通用しない論理で自己を正当化しようとする。そして今、その内部では自殺者が年間3万人以上もいると言うのに、“美しい国”とか言っている。自滅である。つまり、この小説はイメージとしては古びた点はあるが、テーマとしては未だに近未来のままなのだ。

 やぼは承知で、私が何度も読み返すラスト・シーンをここで引用してしまおう。

 “そうだ、心臓の音は信号を送り続けている。ハシは息を吸い込んだ。涼しい空気が舌と声帯を冷やす。母親が胎児に心臓の音で伝える信号は唯一のことを教える。信号の意味は一つしかない。ハシはまた息を吸い込んだ。冷たい空気が喉と唇をつなぐ神経を一瞬、甦らせ、ハシは声を出した。初めて空気に触れた赤ん坊と同じ泣き声をあげた。もう、忘れることはない、僕は母親から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。筋肉や血管や声帯がそのビートを忘れることはないのだ。

 ハシは妊婦の顎から手を離した。赤ん坊と同じ声をあげながら女から遠ざかる。無人の街の中心へと歩き始めた。ハシの叫び声が歌に変わっていく。聞こえるか?ハシは彼方の塔に向かって、呟いた。

 聞こえるか?僕の、新しい歌だ。 (村上龍 『コインロッカー・ベイビーズ(下巻)』より”

 高校生の私は読後、街に出た。まだ夜明け前だったが、夏で部屋は暑かったので、外は涼しくて気持ちよかった。なんだか圧倒的な力が全身に漲っているような気がして、私は夜明け前の東京の街をあても無く歩き回った。そしてハシのように遠くのビルを見上げた。自分に今、物凄い生命力が溢れているのが分かった。

あんな、読書体験はあの時が最初で最後である。

 今でもあの時のような“力”を感じたくなる度、私はこの小説を読む。

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ぼくらが学校に行く理由

 
 今朝 遠くの空で
 何かが轟く音が聞こえた
 風でなく 鳥でなく 稲妻の音でもなく 
 まして
 精霊へと孵化した誰かの命が
 空を駆けていく時の
 音でもない

 数学者が知っているのは
 シンプルな定理に潜む
 世界の美しさ

 恋人の横顔に
 見蕩れた覚えのあるものなら
 誰でも
 数学者になれるだろう

 あらゆる美しさに見蕩れ
 その謎を
 解き明かそうする者なら
 誰でも

 地球は丸い
 ゆえに
 君の国の夕焼けの美しさと
 僕の国の朝焼けの美しさは等しい

 戦火の中で
 壊れた建物の隙間から
 へんな形の空を覗く少女の夢は
 お腹いっぱい食べることと
 学校へ行くこと
 そして遊ぶこと
 
 何故なら楽しく遊びながらでなければ
 人は
 平和を学ぶことができない
 と 知っているから

 『憎しみのプラカードを書ける人の多さに比べ
 愛の手紙を書ける人のなんと少ないことか』 

 By ティク・ナット・ハン


 今朝 遠くの空で
 何かが轟く音が聞こえた
 政治家と
 富める者が互いを蔑み 
 罵り合う声が響くその中

 誰からも見捨てられた
 世界のゴミ溜めで

 新しい救世主が目覚める

 

 

 この春、中学生になる息子が小学校4年生の時、学級崩壊が起きた。毎日ちゃんと学校へ行っても、授業が行われない状態なので、息子は無駄なので学校へ行きたくないと言い出した。それで私は『それなら、一人前に扱うから仕事しろ。』といって、私の仕事の現場に連れて行って、真夏の炎天下の中、働かせた。今、職場の人が撮ってくれた現場での息子の写真が残っていて、大人たちに混じり、頭にタオルを巻いて働いている彼の姿がユーモラスでなんだか愛しい。

 忘れもしないその夜、テレビを点けると、フィリピンのスモーキー・マウンテンでゴミ拾いをして、病気の母親と幼い妹と弟を養う少女のドキュメンタリー番組をやっていた。日本から取材で行ったアイドルだか女優だか分からない女の子が『今一番したいことは何?』と聞くと、少女は『学校へ行きたい。』と答えた。タガログ語の少女は宝物と言って、捨てられた古雑誌のページを一杯持っていて、それで“英語の勉強”と言って、夜、それをじーっと眺めていた。

 第三世界の国々や戦火に見舞われている国の子供たちに同じ質問をすると80パーセント以上が同じように答えるという。そして、将来の夢のダントツが『学校の先生』だそうだ。

 うーん。この差って一体なんだろう、とその夜、私は考えた。そして、確かに思ったことは次のこの地球を真に担っていくのは彼、彼女たちであって欲しいということだ。かく言う私も、学生時代、学校のありがた味など意識したことはなく、どちらかといえば反抗し、無視していた方なので偉そうなことを言える人間ではないが。

 それで、その夜、この詩を書いた。

 願わくば一人の親として、子供たちにとって学校が楽しい場所であって欲しいと願う。

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 風に震える花は
 吸い上げる葉脈の水音に
 命の声を聞く
 春の嵐の雲の切れ間に
 太陽の
 逆巻く髪を捜しなが

 花よ 無情に延びている直線の地平は
 実は球体であなたを支えている

 花よ いつか風にさらわれたあなたの種子たちは
 国境を越え 
 アスファルトの裂け目密かに芽吹いている

 花よ 激痛とともに手折られたあなたの半身は
 旅人の手の中で 今
 彼の意固地な魂をそっと癒していいる

 花よ 泣いてはいけない 昨日の輝きが
 ただ未熟さゆえのことと知った今でも

 時間の無い世界では
 産声から念仏までの
 生まれてから老いていく
 命があるだけ     

 まして輪廻など
 ただ一度きりの
 自分がいるだけ

 風に震える花は
 その痛みの記憶を
 愛の磁力に変え 
 強さに変える

 自惚れた神々が気まぐれにもたらした
 その美しさを
 なんとか 散らさまいとして

 

 

 

今日は立春。暦の上ではもう春です。近頃は異常気象なのか、暖かい日もありますが、朝夕はまだまだ寒い。私は実は一年の中でこの時期が一番苦手。なんかバイオリズム的に良くない感じがします。ま、Hold onってことで。

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ロックン・ローラー金太郎!

41tvjdtcmvl__sl500_aa300_  ブルース・スプリングスティーンは矢島金太郎である。これを思いついた時、私は笑ってしまった。余りにもぴったりくる説だったからだ。

 矢島金太郎とは本宮ひろしの大人気漫画『サラリーマン金太郎』の主人公の名前である。テレビドラマ化され、映画にもなった。漫画は関東一円を縄張りとする暴走族“八州連合”のヘッドだった金太郎が、あるキッカケでサラリーマンになり、様々な事件、仕事を通して人間として成長していく物語なのだが、裏通りのチンピラ風だったスプリングス・ティーンが、アメリカの民衆の心を代弁する国民的詩人、シンガーへと変貌する様はまさに“金太郎”的だ。

スプリングスティーンの初期の3枚『アズベリー・パークからの挨拶』、『青春の叫び』、そして『明日なき暴走』までは、言わば金太郎の八州連合2代目総長、伝説のヘッドだった時代に相当する。女なし、シンナーなし、喧嘩上等の走りである。スプリングスティーンはこの頃、ロックンロール神話の中をビッグマシンに乗ってフルスロットで駆け抜ける、正に走り屋だった。言葉は饒舌でスピード感があり、歌の内容も、裏通りに生きる不良たちの刹那的な生き様や悲劇、愛の情景をロマンチックに表現したものが多かった。そしてこの頃のEストリートバンドはまさに“八州連合”だ。

 金太郎がサラリーマンになるのは海で大和建設の社長を助けたことがキッカケとなるが、スプリングスティーンが裏通りの兄ちゃんから民衆の声を代弁する歌手になるのに、何があったかは分からない。しかし、その路線がどこから始まったかは明白である。それは4作目『闇に吠える街』の1曲目、“バッド・ランズ”から始まった。

 

  背中が焼けるまで農場で働き

  真相を知るまで車輪の下で働く

  俺には 今 真相が良く分かる

  貧しい者は金持ちになりたがり/金持ちは王様になりたがる

  そして王様はすべてを支配するまでは/満足できない

     -<中略>ー

  生きていることが素晴らしいと感じることが

  罪ではないという考えを

  心に深く持っている者たちのために

  俺は俺の心を見抜いていない一つの顔を見つけたい

  俺は一つの場所を見つけたい

  そして俺はこれらバッドランドにつばをはきかけたい

 

   『バッド・ランド』 By ブルース・スプリングスティーン

 

 スプリングスティーンの伝記を読むと、彼の家庭は貧しくて、子供の頃、家に本なんて一冊もなかったらしい。 だから彼が読書という習慣を身につけるのはずっと後になってからのことだと言うが、この『闇に吠える街』の頃、彼はジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』を読んだのだという。1930年代、大不況下のアメリカで、貧しいながらも強く生きていく人々のこの物語が彼に与えた影響は多分、本人が考えているよりずっと深い。これは憶測に過ぎないが、彼はこれを読むことによって、自分の生い立ちの貧しさにアイデンティファイすることを自らに許し、さらにそれをアートにまで昇華する方法を発見したのではないだろうか。これ以前と以後に分けられる程、彼の詩作のテーマも方法も大きく変わってしまう。そしてその最初の到達点が名曲『ザ・リバー』だろう。

 その後、ギター1本の『ネブラスカ』へと続き、この方法はさらに深化するが、彼が歌の中で表現し、擁護しようとする人々にこの頃、現実の場で何が起きていたかというと、時はアメリカ、レーガン時代、80年代不況の真っ只中だったのである。『サラリーマン金太郎』も第7巻で、仕事で事件に巻き込まれ、こともあろうに愛する家族や同僚、上司が敵の卑劣な手段によって傷つけられる。怒りにぶっち切れた金太郎はスーツを脱ぎ捨て、かつての八州連合を召集し、大暴走を始めてしまう。元の“族”に逆戻りしてしまうのである。

 スプリングスティーンもこの頃、同じことをする。『召集かけろや・・・』と、きっと椎名のようなスティーブ・ヴァンザントあたりに言ったにちがいない。そう、アメリカ音楽史上最大の大暴走『ボーン・インザ・USA』ツアーの幕開けである。この毎回4時間を越す怒涛のロックンロール・ショウは私も見た。2度。何をそこまで・・・と思うほど彼は吠えた、跳ねた、叫んだ。2度目の私の席はステージ真横の2階席だったのだが、ステージ上、ドラム・セットの裏に水を入れたバケツが用意されていて、一曲ごとに彼はざっぶっっと頭を突っ込み、ぼとぼとと水を滴らせマイクに向かっていく。サックスのクラレンス・クレモンズがさすがに呆れて笑っていた。私が初めて見る美しく狂った人間の姿だった。

 大暴走の後、金太郎は逮捕される。スプリングスティーンの大暴走は勿論、犯罪ではないので、捕まることはなかったが。金太郎はムショの金網越しに大和建設の社長に諭され『俺、一人で生きてんじゃないんすね・・・』と言って泣く。これで金太郎は本当に“族”を辞めるのである。スプリングスティーンもこの、時の大統領をも巻き込む一大事件となったアルバム『ボーン・イン・ザUSA』と、そのツアーの後から本格的に民衆を代弁する歌手への道を歩き始めたような気がする。私には『トンネル・オブ・ラブ』のあの写真がシャバに出てきて、今度こそは本当にサラリーマンになった金太郎のように見える。

去年、発表された新作『ウィ・シャル・オーヴァー・カム シガーズ・セッション』はスプリングスティーンにとっては国民的大歌手としての大先輩ピート・シガーが長年レパートリーにしてきたトラディショナル・ソングのカヴァー集である。一体、誰がバンジョーやフィドルをバックに歌う彼を想像しただろうか。しかし、裏通りのチンピラも民衆の声を代弁する詩人も辞めたスプリングスティーンは音楽を本当に楽しんでいて、これは素晴らしく好感の持てるアルバムだ。私にはサラリーマンを辞め、島で漁師になった金太郎に見える。綺麗に日焼けしている姿まで見えるようでもある。

 漫画ではこの島にかつての同僚が金太郎を呼びに来ることから、また物語が展開する。私の予想ではこの後、スプリングスティーンはEストリートバンドとロックンロール・アルバムを作る筈だが、呼びに来るのは・・・・・・そう、ロイ・ビタンだ!

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