『コインロッカー・ベイビーズ』~永遠の近未来小説
この本は今でもラストシーンの部分だけを読むことがある。これはこの小説全般に言えることだが、氏の膨大な著作の中で最もポエジーが炸裂していて、私は特にこのラストを長編詩を読むような気持ちで読む。勿論、ストーリーを全部知っているからでもあるが、そのような読み方をするだけで何度も感動が味わえる。
私の言うラスト・シーンとは危険物質ダチュラで都市の破壊をもくろむ主人公のキクと恋人のアネモネが250CCのオフロード・バイクで渋滞の高速道路を疾走するあたりから、その破壊された街を精神病院を抜け出したキクが彷徨い、妊婦を殺そうとし、止めるラストに至るまでである。
この本を初めて読んだ時のことは鮮明に覚えている。高校2年の夏、高円寺のとある予備校に夏期講習を受けるために田舎から出てきていた私は、夏のアルバイトで一夏留守にしている当時大学生だった兄のアパートで過ごしていてそこで読んだ。
田舎者だった私は受験勉強という大義名分を隠れ蓑にして東京での一人暮らしを満喫していたが、慣れない東京は心細くもあった。お金もそんなに無かったので、特に夜をどう過ごして良いか分からず、それでたまたま本屋で表紙の不思議な装画に魅かれてこの本を買い、毎晩、貪るように読んだ。本当は勉強しなければならない身分だったのに、あまりに物語に夢中になりすぎて下巻は1日予備校を休んでひたすら読み続けたのを覚えている。
物語の主人公は赤ん坊の時、コインロッカーに遺棄されて助かった二人の青年だ。一人はやがて“ダチュラ”で都市を破壊しようとするキク、もう一人はドアーズのジム・モリソンを想起させるようなロックシンガーになるハシである。
解説で評論家の三浦雅士氏はこの小説を“破壊”と“心臓の音探し”という二つの側面から考察を加えている。キクにとっては都市自体が自分を閉じ込める“コインローカー”そのものであり、彼の企てる破壊は自分を閉じ込めるものを突破し、そこから出て行こうとする、いわば『外部』を絶えず求めつづける意思のメタファーである。
一方、もう一人の青年ミュージシャンになったハシは狂気に駆られながら常に一つの“音”を探し続ける。それは母親の胎内で聞いていた“心臓の音”であり、生命力の象徴でもある。
この小説のイメージはその後、80年代後半から20世紀末の日本の様々な表現の中で、流用、再生産された。大友克洋の『アキラ』にもそれは見られるし、岡崎京子の漫画『Pink』にはこの小説のヒロイン、アネモネと同様、鰐を飼う女が出てきたりする。そのせいかこの物語をすでに古く感じるという声を、身近にいる若い友人から聞かされたことがあるが、本当にそうだろうか?
“近未来小説”と銘打たれたこの小説が発表されたのは1980年である。物語の中でもキクやハシが生まれたのが1972年とあるから、確かに私たちはこの小説に描かれた近未来をとっくに通り越した社会に生きていることになる。
それは“オウム事件”や9・11等のテロを経験した社会でもある。反面、サッカーの中田英寿のような古い価値を突破し、世界に出て行くヒーローが出現したりして、氏が本作品で描いたイメージやテーマは図らずも現実化してしまった部分も、また実現した部分もあるように見える。
しかし、例えば数年前起きたイラクでの人質事件の時のような国の対応、“自己責任”とする世論の形成のされかたを目の当たりにすると、私はこの物語が全く古びていないのを感じる。
危機に直面すると日本人は必ず内部を囲い込み、右傾化をすすめ、決して『外部』に通用しない論理で自己を正当化しようとする。そして今、その内部では自殺者が年間3万人以上もいると言うのに、“美しい国”とか言っている。自滅である。つまり、この小説はイメージとしては古びた点はあるが、テーマとしては未だに近未来のままなのだ。
やぼは承知で、私が何度も読み返すラスト・シーンをここで引用してしまおう。
“そうだ、心臓の音は信号を送り続けている。ハシは息を吸い込んだ。涼しい空気が舌と声帯を冷やす。母親が胎児に心臓の音で伝える信号は唯一のことを教える。信号の意味は一つしかない。ハシはまた息を吸い込んだ。冷たい空気が喉と唇をつなぐ神経を一瞬、甦らせ、ハシは声を出した。初めて空気に触れた赤ん坊と同じ泣き声をあげた。もう、忘れることはない、僕は母親から受けた心臓の鼓動の信号を忘れない、死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、生きろ、そう叫びながら心臓はビートを刻んでいる。筋肉や血管や声帯がそのビートを忘れることはないのだ。
ハシは妊婦の顎から手を離した。赤ん坊と同じ声をあげながら女から遠ざかる。無人の街の中心へと歩き始めた。ハシの叫び声が歌に変わっていく。聞こえるか?ハシは彼方の塔に向かって、呟いた。
聞こえるか?僕の、新しい歌だ。 (村上龍 『コインロッカー・ベイビーズ(下巻)』より”
高校生の私は読後、街に出た。まだ夜明け前だったが、夏で部屋は暑かったので、外は涼しくて気持ちよかった。なんだか圧倒的な力が全身に漲っているような気がして、私は夜明け前の東京の街をあても無く歩き回った。そしてハシのように遠くのビルを見上げた。自分に今、物凄い生命力が溢れているのが分かった。
あんな、読書体験はあの時が最初で最後である。
今でもあの時のような“力”を感じたくなる度、私はこの小説を読む。
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コメント
この小説は今やその文章に触れなくても、この小説の話をするだけでとてつもない勇気を与えられるという自分にとってはなくてはならない何かです。
投稿: ほぴ村 | 2007年2月25日 (日) 16時45分
ふとコインロッカー・ベイビーズの書評を探している中、読まれたナヴィ村さまの感情が伝わってくる読書体験それ自体も美しいです。
2020年を過ぎてもいまだに衝撃を受ける書評をAmazonでも読書メーターでもユーザーレビューのなかに見出せるので、すごい作品だなと思います
投稿: 887 | 2023年5月 2日 (火) 02時51分
随分前に書いた記事なのでコメント頂き驚いています。887さん、ありがとうございます。
投稿: ナヴィ村 | 2024年4月 9日 (火) 22時16分