『恋愛写眞ーCollage of Our Life-』~視線
犬の目は色覚に乏しく、殆どモノクロームで世界を眺めているらしい。昆虫には複眼のものがいるが、彼らの見え方はさらに複雑な筈だ。人には人としての眼のメカニズムがあるから同じメカニズムを所有する者同士、同じ世界を知覚しているという共通の認識の上で普段私たちは生きている。
しかし、と私は思う。視覚によって認識した世界を共有するなどということが果たして有り得るのだろうか?と。
眼のメカニズムの共通性というものは確かに前提としてあるが、私たちには“視線”の違いというものは如何ともし難く、例えば同じ場所にいても個々に見ているものが違うと経験に差が出来る。盲人でない限り瞬間ごとの視線の積み重ねで私たちは何かを感じながら生きているので、つまりは、その個々の“視線”の違いこそが“その人”と言ってもいい。
そして、その個々の視線の差異を端的に現わしてしまうものこそがカメラである。同じ公園の花壇を撮影しても、私の写真は花にピントが合って背景はぼやけているが、早いシャッタースピードで撮ったあなたの写真は蜜蜂の羽根が静止していて、花すらが背景になっているかもしれない。一度、子供にインスタント・カメラに持たせたら、私では絶対に撮らないようなアングルの面白い写真が一杯だった。
このような違いが親と子なら微笑ましくもあるが、これがカメラマン志望の青年とその恋人、そして、カメラの知識などあまりない彼女の撮る写真の方が素晴らしかったとしたら・・・前振りが長くなってしまったが、この映画『恋愛写真』はこんな風に物語が展開してゆく。
松田龍平が演じるのはカメラマン志望の青年誠人、そして、その彼女静流を演じるのが広末涼子である。ふとしたきっかけで静流は誠人の写真のモデルになり、やがてその撮影に付き合ううちに自らもカメラを手に取るようになる。そして、フォトグラファーとしての才能をいち早く開花させるのは皮肉にも静流の方で、愛していながら、その才能への嫉妬から誠人は彼女と別れてしまう。数年後、静流はニューヨークで個展を開くまでになるが、現実の壁に突き当たり東京で一人悶々と過ごす誠人の元に、彼女についてあるニュースがもたらされ、真偽を確かめるために彼もニューヨークへ渡る・・・・・。
私が感心したのは誠人が静流を探す方法だ。東京に送られてきていた静流がニューヨークで撮影した写真の場所を探し、誠人は静流の視線をなぞるようにシャッターを切る。静流の視線になることは彼女に同化することだ。ニューヨークのあらゆる場所で、誠人は静流に近づくためにシャッターを切りまくる。そうする内に彼は彼女に起こった、ある事件の真相にたどり着くのだ。
私は仕事で毎日のようにカメラを使う。今はある状況や物を撮影する記録写真なので、余りイマジネーションを問われるものではないが、それでも同じものを撮影した他の人の写真と比べて決定的な視線の違いに気づく時がある。また、その昔、人から撮影を依頼されて出来上がった写真を選ぶ時、私が気に入ったものと依頼主が気に入るものがあまりに違い過ぎて、その人と自分の相容れない部分に気づかされてしまったことがある。
自分以外の他者と同じ視線になることは不可能だ。私達ができるのはせめて理解し合いたい他者の視線に近づく努力をするだけである。しかし、その努力の過程でお互いに気づいたことを共有することは出来る。逆にそのようにしてしか人は誰かのそばにいられないのだ。
この映画のラスト、自分の愛した女性と共に永遠に生きる方法として、これ以上ない決断を誠人はする。どんな決断かは・・・どうか見てください(なんかこのパターンが多いね)。
この映画、恋愛映画であると同時にサスペンスの部分もあり、その描かれ方の好き嫌いで評価が分かれると思うが、私は気にならなかった。そういったことを差し引いても、ストーリーは面白く、投げかけられているテーマも期待以上に深い。主演の二人も魅力的で、特に松田龍平は、もの静かでちょっと不気味な役を演じていた頃の父、松田優作を彷彿とさせた。
エンド・ロールには私が大好きな山下達郎の『2000tの雨』が流れます。使われている写真もどれも素敵で、カメラを持っている人、何か撮影しに出かけたくなること間違いなしです。
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