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追憶の親子丼

Photo_3  親子丼。今日、家族皆の分を作ったが、上手くできたのもあれば失敗作もあって、改めて料理の難しさを実感した。子供の頃、この親子丼が私の好物ということになっていたことが一時あり、それは今は亡き祖父の思い出と繋がっている。

 私の祖父母は、去年、ヒットした映画『フラガール』でお馴染みになった福島県いわき市で、かつての常磐炭鉱・鉱夫のための“保養所”をやっていた。

 “保養所”と言っても今一ピンとこないかもしれないが、簡単に言えば大きな温泉旅館。宿泊客もあれば、何処かの会社の宴会もあり、また当時の地域におけるなかなか豪華な結婚式場でもあった。子供の頃、千葉にいた私は、夏休みや冬休みのたびに母の実家であるこの保養所に帰省して、文字通り夢のような日々を過ごした。

 特に夏休みの思い出は秀逸で、“チョットコイ、チョットコイ、”というコジュケイの啼き声で目覚め、それから夕食の時間まで、でかい建物の中や大浴場を走り回り、宴会場のマイクで歌い、食堂のテーブルで卓球をし、布団部屋でトランポリンをしたりして遊び呆けて暮らしていた。また保養所の裏には大きな池があって、あたりには食用蛙の鳴き声が響き、そこには、おたまじゃくしやらフナやらがいて、釣り糸をたらしているだけで一日を充実して過ごせてしまうのだった。

 この頃には東京からリトルリーグのチームが合宿に来たりもした。一夏その子たちと仲良くなって、練習に混ぜてもらったり、夜は皆で花火をやったりしたのは絵日記のような思い出だが、いよいよ合宿最終日になって、その子たちが東京に引き上げていく時の寂しさといったら、なかなか強烈だった。今まで一日ガヤガヤしていたものが、なんだか急にシーンと静まり返り、夕暮れには“カナカナカナカナ・・・・”とひぐらしの鳴き声がして、食堂で貰ったリボンシトロンを飲みながら、毎年、夏が終わろうとしていることを知る。

 そんな、なんとなく寂しい気持ちでいた夏の終わりのある日、私が元気がなさそうに見えたのか、突然、祖父が『ひろしは親子丼が好物だろう。親子丼作ってくっれって今調理場に言ったきたから、できたら食べろぉ。』と、ニコニコとして言った。

 何故、親子丼?と驚いたが、思い当たることが一つあった。それはかなり前に、昼食の時、何かで普段は優しい祖父を怒らせてしまい、私は怖くて顔を上げられず、ひたすら飯を無言で喰い続け、その時食べていたのが親子丼だったのだ。それでそのあまりの食いっぷりの良さに祖父は私が親子丼が好物なのと勘違いしたらしかった。

 ロビーから食堂の横を通って調理場にいく途中に和室の部屋があり、私はそこで祖父が勘違いして作らせた親子丼を汗をかきながら食べた。

 今でも親子丼というとその時の、電気をつけるべきなのかつけないべきなのか迷う部屋の微妙な暗さと、青い畳の匂い、部屋の隅に積み重ねられた座布団、壁にかけられた棟方志功の版画のレプリカと歴代首相の似顔絵の額、それとひぐらしの鳴き声を思い出す。きっと、戦時中の食糧難の時代を経験している祖父は、子供が元気が無い程度のことは好きなものでも食わせれば治ると思っていたのだろう。そんな祖父の長閑な優しさが今はとても懐かしい。

 その時、私は丁度、腹が減っているのを忘れていたような感じでいたところだったので、出された親子丼はその雰囲気とともに、とてつもなく美味かったものとして永遠に記憶に刷り込まれてしまった。

 今日、作った親子丼は今一。最初に鳥を煮る時のつゆの量が微妙に多すぎて、卵を流した時べちゃべちゃになってしまったり、火にかける時間が長すぎて、卵のふんわり感が上手く出せなかったりだった。

 でも例え有名なお店で親子丼を頼んでも、私は満足できないような気がする。

オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』の“バラの蕾”では無いが、私が求めているのはきっと、あの時の親子丼だけなのだ。

 そう、“追憶の親子丼”だ。

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音叉ーある悲劇に

 

眠れ 神性に帰せ
悪の華の球根が滋味として
憎悪を吸い上げる
その傍らで

ああ
悲しみの音叉は
キーンとして心臓を刺し貫く
生涯に渡り
それを聞くことになる
運命の耳

月が歪み
麻酔の効かぬ
手術台の夜よ

祈りの詩句を知らぬ
聖職者がテーブルで
凝視する
新聞の文字

音を消したテレビの中
白蟻どもの
阿鼻叫喚

愛よ眠れ
耳を塞げ

 

 これは神戸の連続児童殺傷事件が起きた時に書いた詩。まだ我が家の子供達が小さく、やっと人の親の気持ちが分かったつもりになった頃だったので、余計に事件に衝撃を受け、いたたまれなくなって私はこの詩を書いた。

 昨日、バージニア州で起きた射殺事件は32人が犠牲になる大惨事になってしまった。この種の事件ではマイケル・ムーアの映画『ボーリング・フォー・コロンバイン』で取り上げられたコロンバイン高校での事件が有名だが、犠牲者の数だけ言えば今回のそれは史上最悪の結果となった。

 これから犯人の実像については精神分析や何やらで色々明らかになることと思うが、きっと原因については本当のところは何も分からないだろうと思う。スプリングスティーンの『ネブラスカ』ではないが、理由の無い卑劣な行為というのが確かにあって、今回のような事件を目の当たりにすると、人間はただ慄然とするしかない。

日本でも長崎市市長が射殺されて、さらに暗澹たる気持ちになった。

 今は犠牲者の冥福を祈るしかない。

 

 

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青空

 

ー娘にー        


きれいな黒い瞳に映る
鰯雲の空の青から
不意に
水が湧き出る
その小さなパールの粒が
ゆっくりと伝って
頬で止まった

私はそれを唇で拭った
舌で舐めた
悲しみの味ではない
しょっぱい
青空の味

まだ喋れないお前の
私には触れられぬ心
だが
心はいつか言葉になり
そう遠くない日
おまえは本当に
私の触れえぬ者
となる

風船が上がっていく
天使のように
おまえの頬に
青空が流れている

 

 

 娘がづっと小さかった時の詩。“鰯雲”だがらまたまた全然季節外れですが、最近の彼女は、この頃が嘘のように喋る喋る(笑)。しかし、私の狂人のような日記を読めば、娘がそうなるのも無理は無かろうとも思います。しばし、反省。

 娘は小さい頃はいわゆる言葉が遅くて、もしかしたら、耳が悪いのか?とか、言語機能に何か問題があるのか?など心配した時期もありましたが、とんだとりこし苦労でした。

それで“触れえぬ者”になるのは、ホント、あっと言う間でした。

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Ground


月光の海の
その無音の群青に
いつまでも身を浸していると
魂はいつしか
降り注ぐ光の矢から
スローに逸れて
クラゲのように
水没した古(いにしえ)の神殿を
あても無く
漂い始める

魚群は銀色の腹を見せて翻り
命は嬉々として
肉体を抜け出ようとする
この水の惑星の
圧倒的な美に犯されて
鯨よ
僕は
この甘美な死のミステリーに
もっと深くダイブしたい


頭上ではゆらゆらと
光が
出口へと手招く
浮上を試みると
海底で鳴る
鍵盤の一つ欠けた
19世紀の
古いピアノ

 

 

この詩はあるアーチストの絵から生まれた。今から6~7年前の夏、私が責任者を務める現場に、ある女性がアルバイトにやってきた。少し言葉を交わすようになって後、私はその女性が画家であることを知った。

一度絵を見せて欲しい、と私が言うと、初め彼女は写真を持ってきてくれ、その中の一枚を私はとても気に入った。なんでもその絵は彼女がまだ学生の頃の、つまりとても初期の作品で、他の絵にはほとんど題名が無いのに、その絵にだけは“Ground”という題が付いていた。私が何故かと聞くと、彼女は、自分でも良く分からない、と言った。

私の仕事はフィールドワークで、彼女がバイトに来たその年の夏はとても暑く大変だった。そして、そのフィールドワークの時期が過ぎ、室内で資料整理をする頃、彼女は私が気に入ったと言った絵を職場に持ってきて飾ってくれた。その頃の私は貧しくて(今でも貧しいが)、とてもその絵を買うことはできなかったが、その夏の終わりから秋のひと時、おかげで私はとても豊かに仕事をすることができた。

“Ground”はブルーを基調にした抽象画で、とても私の想像力を刺激する絵だった。しかし、題名との関係が今一つ分からず、それで辞書で調べるとGroundには“海底”という意味があることを知った。そして、それを知った途端、瞬時にこの詩が出来上がってしまった。

彼女と会わなくなって随分経つが、彼女は相変わらず絵を描いていて、彼女のホーム・ページで見る限り、絵は初期の“Ground”の頃よりも軽やかになった印象を受ける。それは、生真面目な彼女の、ありきたりな日常からでも鋭敏に何かを得ようとする日々の格闘がもたらした一つの達成であると思う。自らのアートに馴れ合わず、常に真剣に創作に向き合っている彼女を私はいつも羨ましいと思っていた。

人づてに聞いたところ、彼女は今、近く行くためにイタリア語を勉強中だとか。彼女は本当にフットワーク軽く何処へでも出かけて行ってしまう人で、私は密かに彼女を“インスピレーションの狩人(ハンター)”と呼んでいる。

U野さん、次の旅に祝福を。いつも個展に行けないけど、また新たな“獲物”?を見せてくれるのを楽しみにしています。

PS. この詩の最後のピアノは、映画『ピアノ・レッスン』のラストで海に沈んだあのピアノです。これ、前に言ったけ?

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ズタズタ47番

 20070401173616四月の暖かい陽射しが、まだ空席の目立つブルーのスタンドを光と陰の部分とに分けていた。試合開始はPM2:00だが、早く着きすぎてしまったため、久しぶりに横浜の街を散策し時間を潰そうかと思ったが、球場周辺の異様な雰囲気を察知し、予定を変え早々と球場に入ることにした。

 プロ野球セリーグ開幕、巨人VS横浜3連戦。一勝一敗で迎えた3試合目の今日、息子の予想では今日の先発、巨人は高橋尚成、横浜は工藤。特に工藤は昨日の2戦目と思っていたので、昨日、投げなかったことを受けて、ついに“生鉄人”の雄姿を見れると、俄然、我々親子の会話は盛り上がった。

PM12:30頃、球場に着いたが、一塁側横浜ベイスターズ側の内野自由席はすでに満員。我々の持っているチケットではもはや、三塁巨人側スタンド席しか無いとあって、仕方なくジャイアンツファンが大挙する三塁側に回る。通路から24番ゲートを潜りスタンドに出ると、日陰に慣れていた目が一瞬、眩しさで視界があやふやになった。見ると、打撃練習をしているのは巨人の選手達で、やや浜の風を感じる春の空に、気持良い球音を響かせていた。私達は売店で買った弁当を食べながら、今日のゲームのスタメン発表を心待ちにした。

 以前、“ロックンロールとベース・ボールこそアメリカ人が人類に貢献した最も偉大な発明だ、と、このブログの何処かに書いたと思うが、この試合前の練習中、そうしたBGMを聞きながら飛び交うボールを目で追っていると、つくずくそう思う。熱心なファン達はグランド際まで行って、携帯でお気に入りの選手の写真を撮ったり、ファール・ボールを追い掛け回したりしている。私は実際のゲームもさることながら、この練習を見ている時間が好きである。

 “横浜、ピッチャー工藤”、とアナウンスがあると、球場全体から歓声が上がった。去年までチームの至宝としてマウンドを守ってくれていたジャイアンツファンにしたら、さぞ想いは複雑だろうと思って見ていたが、工藤という投手はすでそういう次元を超えていて、皆、敵味方の区別なく素直に声援を送っていた。

 工藤公康は今年四十四歳。プロ野球の世界に入ったのが81年というから、現役今年26年目である。81年と言うと、ジョン・レノンが暗殺された翌年だから、それを考えると目も眩むような思いがする。

 我が家には1986年の日本シーリーズ、西武VS広島、広島に三連敗した後の4戦目、今は亡き“炎のストッパー”津田恒美から工藤がサヨナラ安打を放ち、そこから逆転優勝をとげるビデオがあるが、その時の広島には山本浩二がいて、衣笠がいる。西武には東尾や現西武監督の伊東がいるので、それを考えると、彼の野球人生がいかに長く劇的なものかが分かる。

 工藤はいつまで投げるのだろう?投げられるのだろう?。球場中で皆が話していたが、投げられるまで投げるに決まっていて、彼は惜しまれながら引退、というパターンではなく、文字通りボロボロになるまで投げるつもりだろう。

 しかし、そんな暖かい声援もつかの間、ゲームが始まってしまうとそれは厳しいプロの世界。グランドでの結果が全てであるし、それは工藤自身が一番良く知ってい筈だ。

 今日の工藤は三回と1/3を投げて、被安打10、自責点6。正に“ズタズタ47番”であった。途中、私の隣の席の、レプリカ・ユニホームを着て、巨人が勝ちさえすればなんでも良いみたいな家族までが、“替えてやれー”と、叫んでいた。

 三塁側から見ると、左腕である工藤の背中“47”がずうと見えていて、私はこの姿を忘れないように覚えておこう、と不遜にもそんな感傷的なことを思ってしまった。

 工藤がマウンドを去っていく時、またしても球場中から拍手が起きた。皆、工藤がこのまま先発要員から外れて、段々と一線から引いていくことを考えてしまったのだろうか?

 だが、工藤公康の野球人生に、こんなことは山ほどあったはずだし、それを何度も何度も乗り越えてきたからこそ彼は偉大なのだ。

 “間抜けなことも人生の一部だと、今日の愚かさを笑い飛ばしたい”という、吉田拓郎のこの言葉を今日の彼に送ろう。

打たれる中年男には哀愁があって、それはそれで色っぽかった。

今日はたまたま調子が悪かっただけ。シーズンはまだ、始まったばかりだぜ!頑張れ! 工藤公康。

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