『ケルアック』~青春のカラータイマー

"ケルアッキン"である私はほぼ毎日彼が書いた文章に目を触れる。別に真面目に彼の小説や詩を読もうとするのではなく、例えば何かの折、退屈だったり、トイレの中だったり、寝る前のほんの数分だったり、私は読むものが無いと彼の本を無造作に手にとってどのページからでもいいから適当に眺める?のだ。
彼の小説には別にストーリーらしいストーリーがあるわけではなく、基本的に文体の作家なのでその文章自体の美しさに触れられればいいわけで、つまりは彼はダラダラと長い文章を書いているように見えて本質的には詩人なのだと私は思っている。
私の大学の卒論は彼だったし、実際彼の墓参りには短いアメリカ滞在中に2度も行っているので数年前までは彼こそ私にとっての最大のカルチャー・ヒーローであった。だが、やはり私自身が40を越えたあたりから少々見方が変わってきた。
今、ケルアックとニール・キャサディの事を考えると妙に悲しい。ケルアックの代表作『路上』に描かれたケルアックとキャサディの青春は今では別に特別なことではない。第二次世界大戦が終わり、物質的豊かさを手中に収めたアメリカの中の画一された価値観を破壊する彼らの旅は、その後、世界中の若者達の“青春”の雛形になった。彼らは無意識の内にも“青春”の発明者だった訳で、ケルアック自身はその後のヒッピー・ムーブメントを毛嫌いしていたにもかかわらず、その世代にも(それ以降にも)熱狂的に読み継がれた。とり合えず喰うに困らなくなった世の中での、最もエキサイティングな青春の過ごし方の格好のガイドだったという訳だ。
晩年の彼の悲劇は、その書く文章を通して表現したものの意味を自身が全然理解していなかったといった点に尽きる。20世紀の青春の創造者は自らは仏教を熱心に研究するも、本質的には敬虔なカトリック信者であり、『路上』は自身の詩的ロマンチズムをキャサディーに託し、ただただ美しく音楽的な文章を書き上げただけだと思っているふしがある。(だからこそ、伝説の、ロール紙にタイプした第一稿に筆が入れられた時、彼は激しく傷ついたのだ。)
この本はジャック・ケルアックという人間の実際に触れた人々の証言から彼の実像を浮き彫りにしようとした本なのだが、予想した通り若き日の彼と晩年の彼の“落差”にただただ驚かされる。若かりし日の彼は反逆児で、才能に溢れ美しく、良く誤解されたと言うが『路上』のディーンはキャサディではなくケルアック自身のようだ。しかし、晩年の彼はと言うとぶくぶくに太ったアル中のただの迷惑なおっちゃんである。
私はここで“青春”という熱で生涯そのものをに生きてしまった人生というものを考える。彼らは若さに限りがあるということに思い至らない。“晩年”とか、“その後”とかは最初から彼らには無いのだ。
この本の後半、ジャックとニールの晩年の様子を読むと彼らはもうすぐ自分の命が尽きるのを分かっていたかのようだ。つまり、もうある時期から“青春のカラータイマー”が鳴り続けているのをちゃんと知っているのである。
ニールが死んでもジャックはテレビやその他のインタヴューで彼が死んでいない風な発言を繰り返していたという。しかし、私は、それは最愛の友人をアメリカ文学史上の“アイコン”として書き記した彼にのみ許された特権だったと思う。
私が古書店を夢中でケルアックの本を探し回っていた頃に比べ、現在ではその翻訳本はもっと増えていて、実は読んでいないものもある。極力翻訳が出るたび買って読んではいるのだが、やはり私が繰り返し読むのは『路上』である。
“青春”が描かれているのに、40を過ぎた今でも読めるのは、この本が実は偉大なミュージカル・プレイだからだと思う。
エルビスの時代に現れたもう一つのロックンロール。ディランやボウイも若造の頃、ハマッタと言うし。
| 固定リンク
| トラックバック (0)
最近のコメント