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残波光 


土に還ったあなたの命は
夏の鮮やかな果実と亜熱帯の花々となって
無限に
回帰することを
旅人に告げる

一粒の雨が
歴史の悲しい涙だとして
島を癒すスコールの響きに
甘くまどろむ
マンゴウの午後


首里から摩文仁の丘を経て
喜屋武岬へ
砂の上で
戦(いくさ)は風葬に処されたゆえ
今は骨だけを晒し
サトウキビの葉が
泣き喚く女の髪に化身して
南風(はえ)に暴れる

エメラルドの
水平線からこぼれゆく
舟(サバニ)を追って
太陽は異国を目指し


ひらくたおやかなアジアの乳房に
耳をあてると
光る波間から
微かに聞こえてくる
三線と
島歌。

 

 沖縄には一度しか行ったことがないが、きっと何回行っても旅行者以上の感想や感慨は持ち得ないだろうと思うので、何に対しても知った風なことを言うのは止める。

上の詩はその一度だけの旅行の際、書いた詩。丁度、本土では終戦記念日の8月15日に小泉首相が靖国に参拝しただの何だのと言って騒ぎになっていたが、沖縄は6月23日に沖縄戦が終結した日にこそ意味があるので、とても静かであった。

沖縄では何を食べても美味かった。そして酒も。この詩の題はその時沖縄で飲んだ焼酎の名前から取られている。

人生の何処かの数年間、沖縄で暮らせたらなどと夢のように考えている今日この頃。

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『岸辺のアルバム』~洪水の後

 

岸辺のアルバム (光文社文庫) Book 岸辺のアルバム (光文社文庫)

著者:山田 太一
販売元:光文社
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 台風4号の影響で現在外は雨。九州ではすでに被害が出ており、毎年この季節になると各地の被害状況のニュースにいたたまれない気持ちになる。我が家は多摩川の支流の一つ浅川のそばにあるが、多少距離は離れているし2階なので、万が一川の水が溢れても直接的な影響は少ないだろうと、私は普段から甘っちょろく楽観している。

 しかし、70年代この多摩川沿い、我が家よりさらに下流域では大雨の度洪水の被害が甚大で、今日紹介するこの名作ドラマの冒頭の、家が川に流されてしまうあのショッキングな映像は正にその頃の多摩川下流域、狛江~川崎辺りのものだと聞く。

 私がこのドラマを見たのは昔、昼間の時間帯に再放送されていたやつなので、当時は二部の学生と言ってもきっと昼間はバイトもせずブラブラしていたのだろう。

 一見、何処にでもある幸せそうな家族。しかし、個々に見るとお父さんは仕事で武器の輸出に携わりそのことで苦悶していて、家族思いの優しそうなお母さんは実は蔭で不倫している。美人で賢そうなお姉さんはアメリカ人の彼氏との付き合いから思いがけずレイプされる目に合っていて、主人公はと言うとそのことを全て知ってしまったこの家の受験生である。

 現在では家庭が内側から崩壊していくといったテーマのドラマや映画は珍しくない。大抵は家庭なんて言っても本質は個人の集合体であり、それをなんとか上手く取り繕うとしている存在(大体がお父さんか、お母さん)が戯画化され、茶化され物語が進んでいくといった場合が多い。

 このドラマも家庭が内部崩壊していくプロセスが丹念に描かれているといった点だけ見ればそれらのドラマの元祖とも言えなくはないのだが、他のそれと一つ大きく違うのは“家=家庭”といったものに注がれる視線に斜に構えたような所が無く、登場人物たちそれぞれの“家”に対する思い(反発も含め)が意外なほどに真摯で無垢といった点だ。

 有名なラストシーン、内部から崩壊してしまおうとする家族の、暮らす“家”そのものが今まさに洪水で流されてしまおうとする時、家族がとったある行動が、未来への再生の手がかりとなるようにしてドラマは終わる。山田太一はこのドラマで家族個々の秘密を暴きたてることで“家=家庭”と言うものが虚構だと訴えたかったわけではないと思う。個々に事情は抱えていていても“家”はそのそれぞれにとっても“家”であり、それは具体的な建物としての家を指すのではなく、一人ひとりの想いの中にあると、メッセージしているように私には思えた。

 ドラマではお父さんを杉浦直樹、お母さんを八千草薫、姉を中田喜子、主人公の受験生を国広富行が演じていた。そして私が一番好きだったのは“哀愁”役の吹雪ジュン。現在では綺麗で品のあるおばさん(失礼!)と言った感じの彼女だが、この頃は全盛期で超絶的に可愛い。私は、最近、何故かこの70年代に活躍したアイドル・女優たちに思い入れがことさらあることに気付いてしまい、ご他聞に漏れず彼女もその中に入っている。

 ドラマの最後、受験勉強を辞めラーメン屋で修行するという息子を、激しい確執の末に『やってみればいいじゃないか。』と、結局は笑って励ますお父さん。何をやるといっても最後には許してくれた亡き父を思い出すのか、私にとって忘れられないシーンである。

上のアフェリエイトはこのドラマの原作本のやつで、これ以外のアフェリエイトは無いから、きっとまだDVD化されていないのだろう。原作は実はまだ読んでいないので、この雨の連休中、じっくりこれを読んで過ごすのも良い休日かなと思っている。

 それと忘れられないのはジャニス・イアンが歌う主題歌の『Will you dance?』。名曲。

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『アースダイバー』~野生の東京

Photo_2  “縄文地図を片手に、東京の風景が一変する散歩の革命へ!見たこともない野生の東京が立ち上がる”と、この本の帯にはある。だが、この本に書かれているようなことは、私のように考古学を生業にしているものにとってはごくごく日常的な思考方法であって、特に驚くようなことは無かった。しかし、それでも私がこの本をわざわざ買った理由は、巻末に“Earth Diving map”と称して、縄文海進と呼ばれる時代、つまり今より海が内陸部へと侵食していた縄文中期の地図に現在の東京の地図をトレースした図面が付いていたからである。

これは面白い。良く江戸期の絵図を片手に東京の下町を散策しているお年寄りを見かけるが、この地図があると、現代からいきなり縄文中期へと飛べる。大体、縄文時代、岬の突端だったような場所は当時の祭祀行為が行われたような場所であり、それは現在まで延々と受け継がれている。神社や墓地など、主だった宗教的施設は現在もほぼ縄文中期と同じような位置にある

中沢新一氏は昔、私が大学でイヴェントの企画をしていた際、講演を依頼し快諾していただいた覚えがある。私はお世話になっていた大学の先生とネイティブ・アメリカンのメディスンマンを呼んであるパフォーマンスをして貰ったのだが、その前にただのオカルティックな見世物にならないようにと、氏にアカディミックな話をしてもらい、つまり“ハクをつけ”ようとしたのである。当時、氏は浅田彰などと並んで、“ポスト・モダン”の代表的な知識人で、その効果たるや絶大であった。

 私は彼の一連の著作が学術書なのか思想書なのか、はたまた単なるエッセイなのか未だに良く分からない。膨大な知識量に裏打ちされた緻密な論理が展開されているいるようで、ふむふむと読み進んでいくうちに、いきなり論理の飛躍があったりするので、一概に鵜呑みにしてしまう訳にはいかないと思っている。しかし、読み物としてはどれも相当にスリリングで、読書の幸福を味あわせてくれることは間違いない。

 本書は雑誌『週間現代』に連載していたものをまとめたものだけあって、アカデミックな用語や宗教的な知識など知らなくても、誰でも気軽に読める。しかし、“ダイヴィング”だけあって、届く深度の度合いはダントツだ。私が毎朝、車で通勤途中、見慣れた東京の風景を見て段々と野生を呼び戻されてしまうのは実はこの本のせいである。“湿った土地と乾いた土地~四谷・新宿”、“死と森~渋谷・明治神宮”、“タナトスの塔~東京タワー”などを読んだ後では、都市にいてネイティブな力が立ち上がってくるのを感じる。

 考えるに都市はいつ都市になったのだろう?このような方法はニューヨークやパリやロンドンでも可能なのだろうか? どんな土地にだって霊性や死の記憶が秘められいるはずであり、それぞれ独自の地形がそこに暮らす人間の心性に及ぼした影響が、厚く堆積している筈だ。

 本書の巻頭にはアルゴンキン・インディアンの神話が書かれている。それによるとあるインディアンがアビ(潜水鳥)に水底の泥を取ってこさせ、この泥から世界が創られたという。

 この本のように考えれば、私の職業は“アース・ダイバー”と言えるのかもしれない。しかし、潜って取ってきたものから何を作り出すべきなのかは今もさっぱり分からない。

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