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公開授業~私の靴

 

 

Photo_15

 

美しいものだけが、美しいわけじゃない
履き古した自分の靴を凝視する
黒い中心をもった二つの水晶(クリスタル)よ

今、デッサンする
君の手が発見するのは
物の機能と素材 そして 
それが耐えた時間

花や夕日
ルーブルの絵画や輝く宝石(ジュエリー)
豪華な食事 それと恋
そんな 
美しいものだけを
美しいと思う人に
君になって欲しくないな ぼくは

世界がほんとうは苦しい場所であることを
教えてくれるものは余りに少ない
     
新聞の記事ーそれは文字だ
テレビのニュースーそれはフィルムだ

だが使い込まれ 手入れされ
それでも役目を果たさなくなった道具には   
忍従と経験の色が染み付いていて
素朴な真実を
君に伝える

履き古した靴を 観察し
線を引き 
線を消し 
色を塗る君

そんな人を
ぼくは

美しいと思うな。

 
今日は娘の小学校の公開授業でした。絵や工作の展覧会がメインでしたが、他にも自分で作った人形を様々なシチュエーションの中に置いて写真に撮影するといった面白い作品もあって、期待以上に楽しめました。娘はジャングル・ワールドと題された絵とジャングル・ハウスと題された工作、それに靴の絵と、全部で3つの作品が展示されました。その中で私は一番シンプルなこの靴の絵に感激しました。

私は自分の靴を描くように子供達に指示した先生の意図が良く分かります。親バカで写真は娘が描いたものだけですが、実際はいっぱいの靴の絵が展示されていて、圧倒されました。

子供達のこの「自分のくつ」と題された作品群に触発されて、その場で上で紹介した一編の詩ができました。

展覧会の後は教室へ行って、娘のクラスの算数の授業を参観しました。その授業でやっていたんだけど、正5/2角形ってどんな形かすぐに頭に思い浮かびます?私は分かりませんでした。図で示されると、なあんだって感じですが。

家系的に理数系がダメな一族の出なので。

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Farewell

 
鮮やかに
海は
泣きわめいた

一本の長い直線が横たわるばかりに

決して溶け合えない
自分と同じ
青い
空に向かって 

 

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『路上』と『オン・ザ・ロード』

 

オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) Book オン・ザ・ロード (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1) (世界文学全集 1-1)

著者:ジャック・ケルアック
販売元:河出書房新社
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 池澤夏樹個人編集による「世界文学全集」の第一回配本がこのジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』。個人による全集ものの編纂は1966年の小林秀雄の手によるもの以来と言うから実に42年振り、そして、もしこのシリーズが商業的に成功すると、今後、出版界ではこのような企画がもっと増えるかもしれない。

 このケルアックの『オン・ザ・ロード』はこれまで『路上』と題され広く読まれていたものだが、『路上』を日本語のカタカナ表記で原題のまま『オン・ザ・ロード』としたこだわりについて、池澤夏樹氏は本書折込の解説の中で次のように言っている。

 “『オン・ザ・ロード』を『路上』と訳してしまうと何か大事なものが欠けてしまう。『路上』という日本語は道の上という場所のことであって、動いている感じがないのだ。”と。

 高校1年の時、初めて読んで以来、20年以上、私にとってこの小説は福田実氏訳の『路上』以外の何物でもなかった。そしてその訳文が血肉化ている分、今回のこの新訳は余計に新鮮だった。

 本屋でざっと目を通してすぐに分かったのは、二人の主人公(と言っても良いと思う。)のディーンとサルの“会話”だ。以前はなんとなくニュアンスで理解していたその“感じ”が、現代的な新しい口語体になってより身近になり、以前は狂った二人の旅をただ眺めている印象だったのに対し、今回、文字通り旅に同行している気分だった。

 この『路上』と『オン・ザ・ロード』を読み比べるに、二人の訳者がこの小説をどういう風に解釈していたのかを垣間見れるようで興味深い。

 

路上 (河出文庫 505A) Book 路上 (河出文庫 505A)

著者:ジャック・ケルアック
販売元:河出書房新社
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 福田氏訳は題名の『路上』が示すように、途方も無い旅の後、必ず一人取り残されるサル・パラダイスの心象に重きを置いているような気がする。サルは各章の終わりにアメリカのいたるところの“路上”にぽつんと取り残されるが、サル・パラダイスに課せられている役割は“狂ったアメリカの観察者”と言った感じで、かれはクレイジーな旅のルポライターのようでもある。そして福田訳は物質主義的で画一的なライフ・スタイルが定着した当時のアメリカの非人間的な側面を、この二人の新しい野生児の旅を対比させることによって明らかにするような、そんな面を強調しているように思う。

 “僕は不意にタイムズ・スクェアにいる自分を見出した。アメリカ大陸を約八千マイル歩いて、再びタイムズ・スクェアに戻ってきたのだ。しかもラッシュ・アワーの真っ最中にだ。僕の道路に慣れた無心の眼に映るのは、ニューヨークの徹底した狂態と奇怪な快哉の叫び声だ。何百万という人間が、わずかな金を求めてたえず押しあい、つかみとったり、もらったり、与えたり、溜め息をついたり、狂気じみた夢を追い、そして死んでいく。死ねばロング・アイランド市の向こうのあの荘厳な共同墓地に埋葬されるのだ。ここはこの国の高い塔の都市ーこの国の一方のはしー薄っぺらなアメリカの生まれるところだ。”~福田実訳『路上』文庫154Pより。

 A地点からB地点まで人が動く。A→Bと。個人的な感想だが福田訳はB地点に辿りついた時の部分に真髄があって、サルが一人になって心情を吐露する場面、またそれに付随する広大なアメリカの風景描写の美しさが印象に残る。

 それに比べ今回の新訳版『オン・ザ・ロード』は、これはもう圧倒的に→の部分、つまり移動中の描写と、以前はだらだらと時に退屈にさえ思えた会話の部分が素晴らしい。ディーンとサルの会話は、現在の東京の街角で、夢中になって話している二人の兄ちゃんの話をそばで聞いているようだ。気が付いたのは旧訳ではディーンが口癖のように叫ぶ『そうだ!そうだ!』となっているところを新訳では『いいね!いいね!』となっていて、なんかクレイジー・ケン・バンドの横山剣のようで笑えた。また、新訳は「青春小説」という面を強調しよとしてか、後半、周囲の友人達が落ち着いてくるのに一人ディーンだけが取り残されていくあたりに哀切が込められていて、特に第4部前半、サルが初めてディーンをニューヨークに置いて一人旅立とうとする時の二人の友情を込めたやりとりはさながら青春映画の名場面のようだ。(と言っても、その後、またディーンは狂って、メキシコまでのとんでもない旅が始まるのだが・・・・。)

 私がこの本を初めて読んだ頃、この小説の評価はあまり高くなかった。この小説始め、ビート・ジェネレーションに影響を受けたと自認する作家や詩人、ミュージシャン達も『文化的な影響は認めるけど、小説として一級であるかどうかは・・・・・・・。』と言った意見だったと記憶する。しかし、今回、世界文学全集、言わば古典のような扱いを受けるようになったとあって、隔世の感がある。そして、それには20世紀が終わった、ということに大きく関係がある気がする。

 この新訳は躍動感があり、さらには映像的で、読みながらヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュの映画、また犯罪を犯しながら旅する『テルマ&ルイーズ』、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』といった映画を想起したりするが、本当は逆で、それらの映画全てはエッセンスとしてこの小説の影響の下に作られているのだ。

 現在の世界において旅のルポタージュ(報告)にはもう意味がない。あらゆる場所は踏破され、ヴィデオ・カメラが持ち込まれ、間接的に眼にしたものを確認することが“旅”ということになってしまった。しかし→、ムーヴすることそのものにはまだ意味があって、今回の訳はそのことに焦点をあて、この小説が今世紀に入ってもまだ青春のバイブルたることを証明した名訳だと思う。冒頭に紹介した解説文の中で、池澤氏は英語のroadとは“ただの道路ではなく、移動している状態のこと”と説明している。

 連中はぼくらを二十七丁目とフェデラル通りの角で降ろした。ぼくらのボロボロのスーツケースがまたしても歩道に積み上げられた。まだまだ先は長い。しかし、気にしない、道(ロード)こそ命だから。』~青山南訳『オン・ザ・ロード』P296より。

 この池澤夏樹編集の世界文学全集は全部で24刊まであって、リストを見ると凄い顔ぶれ、また作品の数々だが、中には本邦初公開、新しく紹介される作品や作家もあって、これから読むのが楽しみ。「世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。そんな体験をして欲しい。」とのキャッチコピー。そして、その第一回配本がケルアックの『オン・ザ・ロード』。氏のセンスの良さを感じる。

 昨日、書店に行くと第二回配本のバルガス・リョサ著『楽園への道』が置いてあった。また、読まなくちゃ・・・・・・・。

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二人のプロフェッショナル

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 この年末から年始にかけて見た様々なテレビ番組の中で、心に残ったものが2つあった。一つは正月2日にNHKで放送された『プロフェッショナル~仕事の流儀 イチロースペシャル』、もう一つは7日月曜日夜、テレビ東京放送の『カンブリア宮殿』にゲスト出演した野村克也現楽天ゴールデン・イーグルス監督の言葉である。

イチローの方は天才であるがゆえの苦悩、周囲からの期待とプレッシャー、そしてそれと戦うための凄まじいまでの努力と自己コントロールへの執念が、今回、特別に許された取材映像とインタビューで余す所無く伝えられた。

 この番組、一々驚きかつ感心する場面の連続だったが、私が一番感じ入ったのは、イチローの生活習慣だ。イチローの一日はその行動が時間単位で細かく決められていて、日々その段階を正確に踏むことで、彼は無意識にも集中力を最高の状態に維持出来るよう努めているようだった。

 キャスターの住吉美紀曰く『和の“~道”というのは皆、細かく所作が決まっていて、その段階をきちんと踏むことによって集中力が高まるようになっている』とのことで、イチローの生活もまさにそれに似ている。7年間、毎朝、同じ具無しカレーを食べ続けるイチローは、生活そのもが“野球道”“イチロー道”とでも言うべきか。

 番組後半は昨年の一厘差までを競い合った首位打者争いの様子が中心で、その手に汗握る争いは見ているこっちまで胃が痛くなりそうだったが、その戦いについに敗れ、首位打者を逃した打席の後、守備位置のセンターに戻ったイチローがそこで泣いているのを見て私は驚いてしまった。イチローは帽子を深々と被り涙を悟られまいとした風で、まるで、それが甲子園で負けた高校球児のような、もっと言うと少年野球大会でチャンスに三振した子供のような表情だったからだ。天才とは初期衝動をずうと維持し続け、それをどこまでも高めるため努力を惜しまない人のことを言うのだなあ、とつくづく思った。

番組中のイチローの言葉。

『プロとは、ファンを圧倒し、選手を圧倒し、そして圧倒的な結果を残すこと。』

 

1135083711   一方、野村克也、我等がノムさんの方は、南海にテスト入団、しかもすぐ首を言い渡され『今、首にされるなら南海電鉄に飛び込んで死ぬ。』と、かけあってなんとかプロの世界に残ったという人だ。

番組の印象は、キャスターの村上龍がなんとか情緒的な面を排し、ノムさんの理知的、論理的な面を引き出そうとしているように見えたが、ノムさんの話は情緒的でもあり理知的でもあって、もう一人のキャスター小池栄子の涙を誘う一方、会場の経営者や管理職の人々にメモをとらせるような論理的な組織論もあって、含蓄のある言葉の数々だった。

 番組中、野村の最高傑作と言われた古田が出てきて曰く、野村の人物評価には3段階あると言う。1、無視する。 2、褒める 3、けなす、とあり、見込みの無いやつは無視、もう一段階上があると思える奴は褒める、一流はけなす、の3段階である。ちなみに現役時代、古田は一度も褒められたことはなく、けなされ続けだったと言う。去年のマー君も、前半、ベタ褒め、後半、勝ち星を挙げ実績が出てきたあたりからはけなされ続けだったので、古田はマー君は一流と認められたと言い、ノムさん本人も『古田は鋭い』と感心していた。

番組中の野村の言葉

『“体力”“気力”は当たり前。“知力”の一点で戦うのがプロ。』

 私はイチローも野村も好きだ。イチローはスパー・ヒーロー、陰で人間「鈴木一朗」が七転八倒している姿も含め、彼と同じ時代に生まれて幸運だったと思う。ノムさんの言葉は中小企業の経営者のようであり、兵法書を読んでいるようであり、その実、口うるさい父親の苦言のようで聞いていて耳が痛く、またありがたい。

 私は詩なんか書いたり、ロックの詩に感じ入ったりしながら生きてきた人間だが、実は気が付くと一番教訓として肝に銘じて聞いているのは野球選手、野球人の言葉だったりする。なんでだろう?父が社会人野球の選手だったからだろうなあ、やっぱり。

最後にこのブログで野球ネタの記事を一番初めに書いた時、引用した言葉をもう一度ここに記しておこう。

「ベース・ボールは人生の一部などではない。人生がベースボールの中にあるのだ。」BYロジャー・エンジェルス  

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