池澤夏樹個人編集による「世界文学全集」の第一回配本がこのジャック・ケルアックの『オン・ザ・ロード』。個人による全集ものの編纂は1966年の小林秀雄の手によるもの以来と言うから実に42年振り、そして、もしこのシリーズが商業的に成功すると、今後、出版界ではこのような企画がもっと増えるかもしれない。
このケルアックの『オン・ザ・ロード』はこれまで『路上』と題され広く読まれていたものだが、『路上』を日本語のカタカナ表記で原題のまま『オン・ザ・ロード』としたこだわりについて、池澤夏樹氏は本書折込の解説の中で次のように言っている。
“『オン・ザ・ロード』を『路上』と訳してしまうと何か大事なものが欠けてしまう。『路上』という日本語は道の上という場所のことであって、動いている感じがないのだ。”と。
高校1年の時、初めて読んで以来、20年以上、私にとってこの小説は福田実氏訳の『路上』以外の何物でもなかった。そしてその訳文が血肉化ている分、今回のこの新訳は余計に新鮮だった。
本屋でざっと目を通してすぐに分かったのは、二人の主人公(と言っても良いと思う。)のディーンとサルの“会話”だ。以前はなんとなくニュアンスで理解していたその“感じ”が、現代的な新しい口語体になってより身近になり、以前は狂った二人の旅をただ眺めている印象だったのに対し、今回、文字通り旅に同行している気分だった。
この『路上』と『オン・ザ・ロード』を読み比べるに、二人の訳者がこの小説をどういう風に解釈していたのかを垣間見れるようで興味深い。
福田氏訳は題名の『路上』が示すように、途方も無い旅の後、必ず一人取り残されるサル・パラダイスの心象に重きを置いているような気がする。サルは各章の終わりにアメリカのいたるところの“路上”にぽつんと取り残されるが、サル・パラダイスに課せられている役割は“狂ったアメリカの観察者”と言った感じで、かれはクレイジーな旅のルポライターのようでもある。そして福田訳は物質主義的で画一的なライフ・スタイルが定着した当時のアメリカの非人間的な側面を、この二人の新しい野生児の旅を対比させることによって明らかにするような、そんな面を強調しているように思う。
“僕は不意にタイムズ・スクェアにいる自分を見出した。アメリカ大陸を約八千マイル歩いて、再びタイムズ・スクェアに戻ってきたのだ。しかもラッシュ・アワーの真っ最中にだ。僕の道路に慣れた無心の眼に映るのは、ニューヨークの徹底した狂態と奇怪な快哉の叫び声だ。何百万という人間が、わずかな金を求めてたえず押しあい、つかみとったり、もらったり、与えたり、溜め息をついたり、狂気じみた夢を追い、そして死んでいく。死ねばロング・アイランド市の向こうのあの荘厳な共同墓地に埋葬されるのだ。ここはこの国の高い塔の都市ーこの国の一方のはしー薄っぺらなアメリカの生まれるところだ。”~福田実訳『路上』文庫154Pより。
A地点からB地点まで人が動く。A→Bと。個人的な感想だが福田訳はB地点に辿りついた時の部分に真髄があって、サルが一人になって心情を吐露する場面、またそれに付随する広大なアメリカの風景描写の美しさが印象に残る。
それに比べ今回の新訳版『オン・ザ・ロード』は、これはもう圧倒的に→の部分、つまり移動中の描写と、以前はだらだらと時に退屈にさえ思えた会話の部分が素晴らしい。ディーンとサルの会話は、現在の東京の街角で、夢中になって話している二人の兄ちゃんの話をそばで聞いているようだ。気が付いたのは旧訳ではディーンが口癖のように叫ぶ『そうだ!そうだ!』となっているところを新訳では『いいね!いいね!』となっていて、なんかクレイジー・ケン・バンドの横山剣のようで笑えた。また、新訳は「青春小説」という面を強調しよとしてか、後半、周囲の友人達が落ち着いてくるのに一人ディーンだけが取り残されていくあたりに哀切が込められていて、特に第4部前半、サルが初めてディーンをニューヨークに置いて一人旅立とうとする時の二人の友情を込めたやりとりはさながら青春映画の名場面のようだ。(と言っても、その後、またディーンは狂って、メキシコまでのとんでもない旅が始まるのだが・・・・。)
私がこの本を初めて読んだ頃、この小説の評価はあまり高くなかった。この小説始め、ビート・ジェネレーションに影響を受けたと自認する作家や詩人、ミュージシャン達も『文化的な影響は認めるけど、小説として一級であるかどうかは・・・・・・・。』と言った意見だったと記憶する。しかし、今回、世界文学全集、言わば古典のような扱いを受けるようになったとあって、隔世の感がある。そして、それには20世紀が終わった、ということに大きく関係がある気がする。
この新訳は躍動感があり、さらには映像的で、読みながらヴィム・ヴェンダースやジム・ジャームッシュの映画、また犯罪を犯しながら旅する『テルマ&ルイーズ』、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』といった映画を想起したりするが、本当は逆で、それらの映画全てはエッセンスとしてこの小説の影響の下に作られているのだ。
現在の世界において旅のルポタージュ(報告)にはもう意味がない。あらゆる場所は踏破され、ヴィデオ・カメラが持ち込まれ、間接的に眼にしたものを確認することが“旅”ということになってしまった。しかし→、ムーヴすることそのものにはまだ意味があって、今回の訳はそのことに焦点をあて、この小説が今世紀に入ってもまだ青春のバイブルたることを証明した名訳だと思う。冒頭に紹介した解説文の中で、池澤氏は英語のroadとは“ただの道路ではなく、移動している状態のこと”と説明している。
連中はぼくらを二十七丁目とフェデラル通りの角で降ろした。ぼくらのボロボロのスーツケースがまたしても歩道に積み上げられた。まだまだ先は長い。しかし、気にしない、道(ロード)こそ命だから。』~青山南訳『オン・ザ・ロード』P296より。
この池澤夏樹編集の世界文学全集は全部で24刊まであって、リストを見ると凄い顔ぶれ、また作品の数々だが、中には本邦初公開、新しく紹介される作品や作家もあって、これから読むのが楽しみ。「世界はこんなに広いし、人間の思いはこんなに遠くまで飛翔する。そんな体験をして欲しい。」とのキャッチコピー。そして、その第一回配本がケルアックの『オン・ザ・ロード』。氏のセンスの良さを感じる。
昨日、書店に行くと第二回配本のバルガス・リョサ著『楽園への道』が置いてあった。また、読まなくちゃ・・・・・・・。
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