『富士日記』~日記考 1
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富士日記〈上〉 (中公文庫)
著者:武田 百合子 |
高橋留美子の漫画『めぞん一刻』に何故かいつまでも忘れられないシーンがある。それは若くして未亡人となった響子さんが、亡き夫惣一郎さんの日記を見つけ、それを読むシーンだ。
見ると内容は見事なまでにその日食べた食事の献立のことばかり。その不思議さで(物語中、ついに一度も顔のでない総一郎さんだが、私はその日記を見て彼がとても「いい男」だったのが分かった。)笑いを誘うシーンなのだが、最近、「日記」というものを考えて、実はあの日記は日記の王道というべきものではなかったかと思う。
詩人荒川洋治氏に言わせると、日記は日々の自分の考えや感想、思いを書くものではない、と言う。それはあくせくとした日々の時間を一時離れ、自らの呼吸を取り戻すもので、内容はその日の天気、食事の献立など、ほんの1、2行で十分だと、以前ラジオで言っていた。氏はもうそんな具合に日記を40年近く続けているらしく、そんなものを延々と書き綴って何になる?と普通考えてしまいがちだが、氏にとって大事なのは書く内容ではなく、書いている時の時間のあり方なのだろう。
氏は日記を長続きさせる極意として、
① 正月など区切りの良い時から書き始めない。
② 初めはやや雑に、数日過ぎてから丁寧な字で書く。
③ ごく簡単なこと(献立、天気など)を短く書く。
などを挙げている。
実はこのブログを始めて一つ後悔していることがあって、それはこれをもっとシンプルな日記にすれば良かった、ということ。それまで私は3年連用日記を6年間欠かさずつけていたが、同じ文章を綴るのでも不特定多数に公開するブログと極個人的な日記では、それに向かう時の気持ちは大きく違う。上手くは言えないが、今、ブログでは言葉が消費されている感じがするが、日記はごく短い言葉でも自らの内に何かが蓄えられる気がしていた。
何故、今日日記について、こうクダクダ書いているかと言うと、昨日、またまたラジオで、武田百合子の『富士日記』についての話を聞いて感じ入ること大だったからだ。この本には百合子が彼女の夫で作家の武田泰淳と、娘の花との3人で富士山麓の山小屋で暮らした13年間が綴られている。そして、過去の日本文学の古典と言われるものの多くがそうであるように、日々の些細な記録の積み重ねが、比類なき文学作品になってる。泰淳の死後、編集者の勧めで百合子はこれを発表したが、大作家武田泰淳の死が、もう一人の作家武田百合子を誕生させたと言っても良い。私はこの『富士日記』が、本来、個人の押入れの中に静かにしまわれたままになっているべきものだったという事実に驚く。
ラジオではこの作品の中で最も印象的なシーンとして、昭和42年7月18日愛犬ポコが死んでしまった日とその翌日の日記を挙げている。その文章の最後で百合子は『ポコ、早く土の中で腐っておしまい。』と書いていて、そこに至るまでの文章をまるで宇宙と繋がっている人間の言葉、原始宗教のような世界観だと紹介していた。
私は過去の日記をほとんど読まない。が、ごくたまにそれに目を通す時、過去に自らが書いた短い一言がコズミックな響きを発しているこに気が付くことがある。日記は、日々の暮らしを詩にしてしまう一つの方法なのかもしれないと、私はその時思った。
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