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存在の耐えられない軽さ (世界文学全集 1-3) Book 存在の耐えられない軽さ (世界文学全集 1-3)

著者:ミラン・クンデラ
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  『存在の耐えられない軽さ』。約20年ほど前、大学生だった頃、初めてこの題名(映画の題名として)を知った時、私はこのフレーズが言わんとしている意味をすぐには理解することができなかった。

 “存在することが耐えられないほどの軽さ”なのか、それとも“人間存在の、その耐え難い程の軽さ”と言うことなのか。

 映画はその頃、確かに見たのだが余り思い出せない。で、小説は今回初めて読み、この小説にはもうこの題名しかないと思った。何故なら小説はこの「存在の軽さ・重さ」を考察するための一種の哲学書、哲学小説なる趣のものだからだ。

 この小説、物語を展開するために取られている手法も面白く、登場人物はトマーシュ、テレザ、サビナ、フランツ、そして著者のミラン・クンデラの5人。

 “え、クンデラも?”と思うだろうが、正確に言うと前述した哲学的命題をクンデラが考察する方法として物語はあって、残りの登場人物たちは乱暴に言ってしまえばその考察のための「チェスの駒」の如き存在だ。

 クンデラはトマーシュ、テレザ、サビナ、フランツの4人を物語の中で自在に動かし、政治的な事件や性愛に纏わる場面とその時のそれぞれの心情に考察を加えながら、例の「軽さ・重さ」について追求していく。そのためかストーリーは時系列には進まず、多分に断片的だ。

 先程、チェスを例に出したので、通俗的にこの4人をそれぞれの陣営に分けるとすると、トマーシュとサビナが「軽さ側」、テレザとフランツが「重さ側」と言うことになる。

 トマーシュはプラハの病院に勤める有能な外科医。離婚歴があり、そしてどうしようもない“女たらし”。25年間に寝た女の数が200人という、そんな男。彼は女達との関係を愛とは別に“エロス的友愛”と称して、それを何より大事にして生きている、正に「軽い陣営」側の代表選手のような男だ。

 片やその妻になるテレザだが、彼女は初めボヘミアの小さな町でウェイトレスの仕事をしていて、そこで外診に来ていたトマーシュと知り合う。彼女にはかつて美しかったのに年とともに醜く、破廉恥に変貌してしまった母がいて、この母が強制する「特異?な」生活環境のため、“心と体の一致”といったことで悩んでいる。

 自らの美しさが自分の人生に何の益ももたらさなかった彼女の母は、美しさというものには意味など無く、特に肉体のそれは美醜に関らず皆平等で、羞恥心すら馬鹿馬鹿しいと思っているような人間だ。家の中を裸で歩き回り、客の前でも平気で放屁をして笑い、娘が入浴中、義父が風呂場に侵入しようとしてもカギをかけるのすらを許さないこの母親は、テレザに肉体は心を閉じ込めておく一種の強制収容所のようなもだというイメージを植えつける。

 この「軽さ」を生きるトマーシュと“心と体の一致”という「重い命題」を狂った母によって背負わされてしまったテレザが結婚するとどうなるのか?これは悲劇なのか喜劇なのか見分けがつかないほど絶妙な設定だ。まずトマーシュ。

 いったいなんで、おれにあれを控えろというのか?そんな事態はサッカーの試合を見に行くのを諦めるのと同じ位馬鹿げているように思えた。だが、それがまだ快楽と言えるのだろうか?愛人の一人に会いに行こうとするとたちまち、彼はその愛人に嫌悪を覚え、会うのはこれで最後にしようと心に誓う。眼前にテレザの顔が浮かんでくるので、急いで酔っ払い、彼女のことを考えないようにしなければならないのだ。彼女を知って以来、彼はアルコールの助けなしに他の女と寝ることができなくなっていたのだ!しかし、そのアルコール臭い息こそまさに、テレザが彼の浮気をわけなく見破ってしまう手掛かりになるのである。(P28~29より)

と、彼は自らの「軽さ」に苦しみ始める。次にテレザの場合。

 彼女はすべての体を平等にする母親の宇宙から逃れ、彼と一緒に暮らすためにやってきたのだ。彼女がやってきて彼と一緒に暮らしたのは、自分の体を唯一のかけがえのないものにするためだった。ところが彼もまた、彼女と他の女たちとの間に平等の徴しを描いた。彼は同じような仕方で女たちに接吻し、同じ愛撫を惜しげもなくあたえ、テレザの体と他の女たちとの体のあいだにどんな、まったくどんな区別もつけなかった。彼は逃れてきたと信じた宇宙に彼女を送りかえしたのだ。他の裸の女たちと一緒に裸で行進するように追いつめたのだ。(P68より)

と、悪夢に囚われるようになる。

                    ☆

 と、ここまでトマーシュとテレザのことばかり書いたが、もう一人の重要な登場人物にサビナがいる。彼女は画家で、トマーシュの“エロス的友愛”の最も親友、ありていに言うと一番のセックス・フレンドということになるだろう。彼女は自由人で、トマーシュの妻テレザとすら友情を結ぶことが出来る稀有な精神の持ち主だが、内心密かには自らのそんな「軽さ」を恐れているようなところもある。当然のようにトマーシュの他にもフランツという愛人がいて、そしてフランツは彼女のそんな「自由さ、軽さ」に憧憬の念さえ抱いている。

 

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 そしてフランツでなくともこの本の読者、あるいは映画を見た世の男性は一様にサビナが好きになるのじゃないだろうか。映画のポスター、あるいはDVDのパッケージのあの黒い下着姿に山高帽を被り、床に置いた鏡に這っている例の写真の女性がレナ・オリン演じるサビナで、白状すると私は映画に関してはこのシーンしか記憶に残っていなかった。(プラス、それと対比するかのようなジュリエット・ビノシェ演じるテレザの不恰好でダサい下着姿!)

 また、この小説のもう一つの主題に「キッチュ批判」というものがあるが、恥ずかしながら私はこの「キッチュ」なる単語の意味を知らなかった。それでネットでこの「キッチュ」を調べると、1 俗悪なもの。まがいもの。2 本来の目的とは違う使い方をされるもの。とある。ただし、巻末の解説によると作者ミラン・クンデラにとってのそれは、「何がなんでも、大多数に気に入ってもらいたいと望む者の態度」という意味も含むようで、「私の敵は共産主義じゃないの。敵はキッチュなのよ!」と叫ぶサビナは素直にカッコいい。

                   ☆

 最後にこの小説のもう一つ重要な要素に、その背景となった時代、“「プラハの春」とその後のソ連軍による“正常化”について触れねばならないのだろうが、詳しく述べられる程、私にはその辺の知識はない。しかし、知っている限りの知識からくる印象で、私はその事件について考えると、すぐ大江健三郎の初期の名作『芽むしり仔撃ち』を想起してしまう。

 この市民生活に強引に介入した政治の暴力が、登場人物それぞれの「軽さ」「重さに」どう影を落とすのかは読んで貰うとして、私はテレザが母親の影響で植えつけられた肉体=強制収容所というイメージが“正常化”後の体制のイメージと重なってくる辺りが秀逸だと思った。

                   ☆

 この小説について何かを書くのはとても難しい。ここまでを読み返してみても、やはり単なるあらすじ解説、感想文以上ものになっていない。できれば、もう一度読んで、いつかもう少しましなものを書けたらと思うが、今、紋切り型の結論や解釈をして納まりをつけてしまおうとするとそれこそ「キッチュ」ということになってサビナに怒られてしまいそうなので、今回は、また長いが作中のミラン・クンデラの言葉を引用して終わることにする。

 この上なく重い荷物は私達を圧倒し、屈服させて、地面に押し付ける。でもあらゆる世紀の恋愛詩では、女性は男性の身体という重荷を受け入れたいと欲するのだ。だから、このうえなく重い荷物はまた、このうえなく強烈な生のイメージにもなる。荷物が重ければ重いほど、それだけ私達の人生は大地に近くなり、ますます現実に、そして真実になるのである。

 逆に、重荷がすっかりなくなってしまうと、人間は空気よりも軽くなり、飛び立って大地から、地上の存在から遠ざかり、もうなかば現実のものではなくなって、その動きは自由であればあるほど無意味になってしまう。

 では、何を選ぶべきなのか?重さか?それとも軽さか?(P8より)

 えっ、テレザか? サビナか?・・・・・・・・・・・・・・・・じゃないよ。

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