この池澤夏樹個人編集の世界文学全集のラインナップを見て、実は本書が一番読む気をそそられない一冊だった。私は不遜にも「今更、『愛人(ラマン)』かよ、今更『悲しみよこんにちわ』かよ。」と思ってしまった。しかし、そう言う割には私は両者の小説をちゃんと読んだことなどなくて、つまりサガンもデュラスも読んだことはなくても十分知った気にさせられるほど有名な作家だと言うことだ。
解説書で池澤夏樹は二人について、二十世紀前半にフランス人として生まれた女性で、若くして小説を書き始め、また生涯書き続け、アルコールに溺れ、次々と男を取替え・・・と言った共通点を挙げている一方、一冊の本の中に両者をまとめたことが良かったか悪かったかを今になって考えている、と言っている。私も読んでみて、その作品世界は全く対照的だという感想を一番に持った。そして予想に反して3作品とも非常に面白く読むことができた。
この両者の作品世界の違いを説明するのに私はイメージとして中島みゆきとユーミンの違いを思い浮かべた。あくまでイメージだが。
デュラスの『愛人(ラマン)』は実は昔、映画を見た後、原作もと思って読もうと試みたことがある。その頃この作品はフランスの有名な女流作家が若き日の性愛体験を赤裸々に語ると言った風なスキャンダラスな紹介がされていて、非常に下世話な興味から私は手に取ったのだが、なんだか良く分からなくて途中で放り出してしまった。映画の方も見たという以外ほとんど記憶にないので、小説、映画とも余程当時の私には合わなかったのだろう。
今回、この全集に収められたデュラスの『太平洋の防波堤』と『愛人(ラマン)』は一人の作家の一つの体験をベースにした二つの小説だ。前者はそのキャリアの前半に、後者はその後半に書かれた。そして私は一読者としてこの時を経て書かれた二つの小説を続けざまに読めるということはとても豊かな体験だという気がした。
『太平洋の防波堤』はかつてのフランス領インドシナが舞台で、そこで貧困に喘ぐ家族の物語。季節ごとに高波に晒されるため作物など作れない土地を買ってしまったがために貧困に陥り、半ば狂気になっている母親と、教養が無く暴力衝動を内に秘め、鬱屈した兄と暮らす美しい少女。
ある日、とある金持ちの青年がこの少女を見初め、高価な贈り物をし始めることから家族はそこに悲惨な日常からの脱出口を見出そうとする。少女も自分の“商品価値”を多分に意識して、あらゆる打算や駆け引きに躍起になる。
この小説はデュラスの自伝的な要素が濃く、彼女自身が見、経験した社会悪と、それが元で舐めねばならなかった貧困、またそれに対する怒りや無力感からくる倦怠などが余す所無く書かれていて、そこで行われる性と富の交換はなんともブルージーな感じだ。
そしてこの小説から34年後に、同じ体験を違う声色で書いたと言っても良い『愛人(ラマン)』でも同様に、これは富める男が貧しくも美しい少女を金で買うといったような通俗的な話ではなく、あくまでものその関係の主体が少女の側にあるという点が陰惨な話であるのに、読後、ある種の強さを感じさせる所以だと思った。
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さて、次にサガンの『悲しみよこんにちは』だが、これってサイモン&ガーファンクルの『サウンド・オブ・サイレンス』の元ネタになった小説だといったことが以前テレビで紹介されているのを見たが、ホントだろうか?この小説というより、小説冒頭に引用されているエリエールの詩、と言うなら分かるが。
この小説とサガンのことを考える時、どうしてもこれが19歳の時に書かれたものだいう点は外せない。ただ、私は早熟の天才と言うものにも二通りあって、若くして才能を発揮して段々と枯渇していってしまう人と、デヴュー時の天才をそのままに生き切っていく人とがあると思うのだが、このサガンはどっちだったのだろう?シーンから消え去ることなく生涯小説を書き続けた人なので、多分、後者に属する人と思うが、この『悲しみよこんにちは』に匹敵する、またそれ以上の作品をその後書き得たのかどうか、彼女の作品をこれ1作しか読んでいない私には分からない。
しかし、この『悲しみよこんにちは』は、19歳だから書けた、と一言で片付けてしまうにはあまりにも良く出来た小説で、最初からもう古典のような風格さえある作品だと思う。編者の言葉に「サガンは一生この処女作をなぞって書き、この小説のように暮らして死んだ。」とあるが、この小説がそれだけの拡大再生産に耐え得るほどのテーマを持った作品と言うこともできるだろう。前回の『存在の~』が哲学小説なら、これは心理小説といった感じで、感受性が鋭い女性による心理描写を核とした作品を一つのジャンルとしてサガンは書き続けたということだろう。
日本人がフランスという国に持つ一般的なイメージ、“おフランス”という感じがサガンの小説にはある。一聴すると甘ったるいシャンソンのようで、実はその詞には毒とエスプリが効いているといった風な。(巻末の年表を見ると実際にグレコのシャンソンの作詞をサガンはしたこともあるよう。)
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私はデュラスとサガンの小説を今回初めて読んで、両者の別の作品も読んでみようかなという気にさせられた。そして私は本書にデュラスの小説が2つ、サガンの小説が1つというこの形に、この二人の作家の違いが明らかになるよう、編者があらかじめ意図したものに思い至った。
デュラスはその声色の多様さを味わう作家だということ。
サガンは一つの声で最初の天才を歌い続けた作家だということ。
・・・・・・・・・・・やはりみゆきとユーミンのようだ。
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