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映画『ゲド戦記』再考

ゲド戦記 特別収録版 DVD ゲド戦記 特別収録版

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 昨夜、日本テレビ開局55年記念特別企画として放送された『ゲド戦記』を見た。これはこの7月19日に宮崎駿最新作『崖の上のポニョ』が公開されるのを機にその宣伝も兼ねたものであったが、見て、やや思うところがあった。

  『ゲド戦記』を見るのは2度目である。1度目は封切初日に劇場で見た。映画の予習の意味でこの世界的なハイ・ファンタジーの傑作を、私は1~5巻(外伝も含めると6巻)まで全てを熟読してこの映画公開日に臨んだ。そしてル・グィンのこの原作に、私は人生において長きに渡り欠如していた何かを探り当てたかのように感動し、のめり込み、しばらく“アース・シー世界”の住人のようになってしまったのだった。ハブナー、セリダー、ローク、カルガド帝国・・・今、その地名を思い出しただけでも、かつて訪れ、しばらく暮らした町を思い出すような気になる。

 だから、そう周囲の友人に話すと、その多くは『じゃあ、映画の方はガッカリしたでしょう?』と大概が言うのであったが、別にそうでもなかった。初めて見た時の感想はと言うと、原作とは別物になってしまったが良い映画だと思った。

 私がこの映画を1度目に見た時の印象は、昔、小・中学校の時体育館に集められ見せられた『ジャックと豆の木』や『長靴をはいた猫』等のシンプルなアニメーションである。ともすると大人が観賞し批評する対象となってしまったアニメーションを宮崎吾朗は少年・少女たちの手に取り戻した、そんな心持さえした。作画の粗さも昔のテレビ・アニメ時代を髣髴とさせるものがあり、私にはかえって好印象だった。

 しかし、昨日、2度目に見ると少し違う感想を持った。原作の読後の余韻が薄れ、厳密にこの映画を一個の作品として見る目が初回よりも強かったせいもあると思うが、これはアニメ映画として極めて特異な作品だ。宮崎吾朗は長大な原作世界を再構成し、日本の少年期から青年期へ移行する年頃の子供のみにピンポイントしたメッセージ映画に作り変えた、そんな印象に変った。

 良く言われることだがル・グィンの原作は、その全巻を通して何かを受容する物語である。これは宝島社『僕たちの好きなゲド戦記』の中で中村うさぎ嬢が書いていて、第一巻『影との戦い』は<自己>を、第二巻『こわれた腕輪』は<他者>を、第三巻『さいはての島』は<死>を受け入れる物語であると言う。

 そして映画は第四巻の舞台設定を用いつつ第三巻のメッセージを主軸にして、第一巻と二巻の要素を散りばめつつ進行する。原作で自らの影に追跡され、怯え、逃げ、最後に戦うのは若き日のハイタカ(ゲド)だが、映画では三巻で登場する王子アレン(レバンネン)だ。

 このアレンは原作のアレンと全く違う。原作のそれに比べ映画のアレンは不安で自信が無く、それでいてキレると自分でも何をしでかすか分からない、つまり現在問題になっている子供像のステレオ・タイプに描かれている。映画封切直後、父駿氏への感情を邪推して話題になった冒頭の父親殺しのシーンは原作には勿論無く、そしてそのシーンは映画『ゲド戦記』は原作の『ゲド戦記』と別物であるとの宣言に等しい。

 簡単に言うと映画『ゲド戦記』のメッセージは<死>の意味を問え、ということだ。物語の中でゲドがアレンに繰り返し語るのは結局そのことである。そしてアニメは子供が見るものという前提に立てばこれは随分と重いテーマである。死とコントラストとなって明確になる生の輪郭と循環。宮崎吾朗は最もヴィヴィットに“今”の子供性に寄り添おうとして、結果、そのようなメッセージを発することになった。死が隠蔽され、形式化され、そのために生が不定形な時代に生きる子供達に。

 ただし今回私が見てやや違和感を感じたのは、借り物のメッセージでは“生命力”は伝えられないということだ。メッセージ、と言った点に関して言えば、これはルグインのメッセージを過去のスタジオジブリの作品という容器の中で単にシュミレートしただけの作品に見えた。何故一度目劇場で見たときには感じなかったのだろう?今回は露骨にそれを感じた。

 ストーリー設定にも弱さがあって、最後にアレンはクモとの戦いに勝つが、そのことによって世界の均衡が回復するような予兆は描かれない。アレン個人にしても殺した(殺したかもしれない)父の国へ帰るというだけで、この物語が意味していたものが何だったのか良く分からない(原作ではアースシーで弱まりつつあった魔法の力がそれにより回復する)。またメッセージは全てゲドの台詞に集約されてしまい、そしてそのゲドも、悪党に誘拐されたテナーを少年と少女が奪回する物語の隣で小難しい哲学を垂れているだけのおじさんに見えてしまった。

 前回、劇場で見たときは私は息子と一緒で、今回は娘と見た。当時、息子はとても感動したようだったが、今回、娘は良く分からないと言った。この二人を比べるだけで言ってしまうとやや強引だが、息子は訳の分からない不安を抱え、時に怯えて生きるアレンに感情移入できたが、娘はできなかったということだろうか?だとしたらこの映画はある年代の少年にのみピンポイントで響く作品で(そこのみが真のオリジナリティで)、そういう意味では成功していると言えるのかもしれない。

 アニメで愛や勇気や冒険を描くことはできる。しかし死や命の意味、環境問題など、深遠なメッセージを伝えるというのは中々難しい。そしてこれはこの宮崎吾朗初監督作品だけでなく、父宮崎駿氏の数々の作品においてさえ言えることである。

 どんなに高尚なものでも初めにメッセージありきのアニメ作品はつまらない。

私はスタジオ・ジブリ作品の中で子供達に最も深遠なメッセージを伝え得た作品は『となりのトトロ』だと今でも思っている。 

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