岡倉天心と風船爆弾
新盆にじっとしていず、フラフラ出かけるのは不謹慎極まりないと言われそうだが、北京オリンピックに沸く今年の8月15日、私は北茨城の天心記念五浦美術館にいた。
息子の学校の宿題に付き合ってのことだが、この美術館はロケーションが最高で、広いガラス張りの外に超絶的に美しい海が見れる。
数年前、家族でこの近くの旅館に初めて泊まりに来た時以来、この美術館、またあの岡倉天心の瞑想の場所でもあったという六角堂(下写真)など、高速道路を使わず下道で実家に帰る時は必ず足を止めるほどこの周辺は好きな場所となった。
東京美術学校を追われこの地に活路を求めた天心を慕ってやって来たのは横山大観、下村観山、菱田春草など、後の日本近代美術の大家たちで、彼らはこの地で日本画の新しい表現を模索する日々を送ったという。
今回は行かなかったが、この近くに天心の墓があり、またそのすぐそばの松林の中に有名な「亜細亜は一つなり」の記念碑がある。一神教である西洋と違って様々な神がまるでジャングルの中の花々のように咲き乱れるアジアを「一つなり」とは、かなり無理があるようにも聞こえるが、天心が言った本当の意味は、この巨大な混沌を丸ごと認めよう、ということだ。
だが、その後、日本はこの言葉を誤解・曲解し、間違った解釈のままスローガンとしてアジアに攻め入って行った。天心の晩年の悔恨と絶望は偏にその一点にあったと思う。
美術館を出た後、私たちは不思議な場所に行った。それは「風船爆弾放流地跡」。美術館で貰った周辺マップで妻が見つけ、行ってみようということになった。そこは天心の墓や記念館からすぐそばの、太平洋を見渡せる崖沿いの道の脇にあって、「わすれじ平和の碑」なる記念碑が建っていた。
太平洋戦争末期のとことん追い詰められた日本軍が考え出した作戦は様々あるが、その他の悲劇的な作戦に比べ、この風船爆弾作戦は一聴して笑いを誘うものである。爆弾を風船にくくりつけてアメリカを攻撃しようなどと。
しかし、その場に立って入道雲の空とひたすらに青い海を見ていると笑えなかった。それは日本民族のプライドが断末魔の叫び声を上げた場所のように思えた。わずか63年前、この方法でアメリカを倒そうと本気で考えた先祖たちがいたことを私たちはきっと覚えておいた方が良い。
岡倉天心は晩年タゴールの親類に当たるインドの女流詩人プリヤンバダ・デーヴィー・バネルジーと恋愛関係にあり、ラブレターのような手紙をやりとりしていたことはよく知られているが、私は今回、美術館のガラスケースの中に彼女に宛てたとも思える内容の彼の辞世の詩を見つけ、その場でメモしてきた。こんな詩だ。
戒告
私がもし死んだら
悲しみの鐘はならすな 旗は立てるな
人里遠い岸辺 つもる松葉の下深く
ひっそりと埋めてくれ
ーあの人の詩を胸において
私の挽歌は鴎(かもめ)らにうたわせよ
もし碑を立てねばならぬとなら
いささかの水仙と
たぐいまれなる芳香を放つ一本の梅を
さいわいにしてはるか遠い日
海もほのかに白む一夜
甘美な月の光を踏む
あの人の足音の聞こえることもあろう。
英詩 大岡 信訳
悲しい歴史、問題山積のままの北京五輪、「亜細亜はひとつなり」の記念碑。この詩の“あの人”を天心が夢見た「理想のアジア」と解釈したら感傷に過ぎるか。
お盆の海は荒れると言うが今年は波が無く、立ち去る私たちの背後で凪ぐ海が割れた鏡のようにキラキラと光っていた。
友よ アジアは一つなり。
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