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静物画


愛って何?
それはまるで用意されていたように
男と女がいて
目を合わせていてもそらせていても
酸っぱい味が
胸に広がっていく
あの感じ
自分が男だということに
少年が気づき
ママの口紅を
少女が悪戯するときのこと

それは
海の水と空の雨が
入れかわる
冬の午後のこと

少年じゃなくなった男は
テーブルになり
口紅がさまになった少女は
陶器になり やがて
二人が
一枚の絵になること

そしてそれは
田舎の縁側に
座る老婆の
手の中で 香放つ

一個のレモン

 

 これはごくごく初期に書いた詩。どういう状況だったかは全く覚えていない。多分、高校生くらいだったと思うから今読むと随分ませた高校生だったと思う。

この詩、冒頭の“愛ってなに?”という書き出しがとても恥ずかしい。しかし日本の現代詩人はこの「愛」という一言に対してどうゆう態度でいるかによって二分しているようなところもあって、例えば私の敬愛する二人の詩人、故田村隆一氏と故諏訪優氏は対照的だ。

まず、田村氏。

“青年のときは/愛/と言う言葉がぼくには苦手だった/特に詩の中で/愛/と言う言葉がどうしても使えなかった”(愛ってなあに?)より

という詩の一説があるくらい。次に諏訪氏。

 “・・・僕たちは/その重苦しいときを待つ/ふるえながら/魂は愛にうちふるえながら”(精霊の森)より

これは彼の代表作の一つと言ってもいい長編詩『精霊の森』の一説だが、この詩に関して渋沢孝輔氏は、「「愛」と言う言葉をこれほど率直に使った詩が現れたということ自体が、私の眼にはひどく感動的なものに映ったのである。・・・」云々と、この「愛」と言う言葉が多用される傑作に初めて接した時の驚きを詩人論の中で記している。思えばこの「愛」と言う言葉に恥ずかしさを覚えたという田村氏は、古今の大詩人がそうであるように挫折した政治家のようにも見え、戦後最大の詩人という評価を得、また一方の諏訪氏は誤解を恐れず言えば、終生“愛のマイナー・ポエット”であった。

 実は私もこのブログに以前、愛と言う言葉を多用した詩をエントリーし、その後、あまりの気恥ずかしさを感じ、削除してしまったという経験がある。

で、今回、また別の詩をエントリーしてしまったわけだが、思うにこの「愛」と言う言葉を使うときの気恥ずかしさは、

一体どこからくるのだろうか?

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