« 朝のボレロ | トップページ | 夢を見る大豆 »

“vulnerabilty”という武器

 

鉄の時代 (世界文学全集 1-11) Book 鉄の時代 (世界文学全集 1-11)

著者:J・M・クッツェー
販売元:河出書房新社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

 英語の“vulnerable”と言う単語の意味を今辞書で調べると、傷つきやすい、攻撃されやすい、無防備な、脆弱な、等とある。が、この語は本来、日本語にするにはニュアンスの伝え辛い、中々難しい言葉のようだ。

 この名詞形、“vulnerabilty”を何かの著作の中で大江健三郎氏が“攻撃誘発性”と訳しているのを見て、私は単純に“いじめられ易さ”と理解した。良くいじめ問題などを話し合っている時、「でも、いじめらる方にも何か原因があるんだよ・・・。」みたいに人が言う時の“原因”を“vulnerabilty”と言い換えると一番ピッタリくるのかな、と。

 もう一つ私がこの語に対して持っているイメージは外部からある圧力がかかった場合、その逃げ場所を失った内容物が真っ先に弱い部分を侵食していく時の、その部分が持った“弱さ、弱点”っといったイメージ。

 今回、本書J・M・クッツェーの『鉄の時代』を、私はこの“vulnerabilty”を武器として戦った女性の話として読んだ。

                ☆ 

 舞台は1980年代半ばの南アフリカ。アパルトヘイト政策撤廃のための戦いが激化したケープタウン。主人公のミセス・カレンは70才で白人高級住宅街に住む元ラテン語の教師。夫は無く、娘が一人いたが、数年前、南アフリカを捨てアメリカに移住してしまい、長い間、数匹の猫と暮らしている。

 医師から癌を告知されているが入院による治療を拒否し、娘への遺言のような長い手紙を書きながら薬で痛みに耐える日々を送っている。そして、いつの頃からかガレージにいついてしまったホームレスの男に眉をひそめながらも、なんとかその彼と共存?を図ろうともしている。

 やがてガンという否応ない“vulnerabilty”=弱さ、を抱え込んでしまったこの老婆の家に、騒然とした外部の暴力が、まるで自らの居場所を見つけたかのよう浸入し始める。

 最初、長年メイドとして働いてくれている黒人女性が幼い二人の娘と十五歳の息子ペギをこの家に連れて来るのがその端緒となるが、その次にはこのぺギがその友人を連れてくる。

 黒人居住区はすでに危険だという理由からだが、どうやら少年達はアパルトヘイト撤廃運動の若き“戦士”のようで、周囲の大人達は彼らが凄惨な暴力の現場に参加していることを黙認している。学校はすでに閉鎖され、二人の少年は長年のアパルトヘイト政策からか白人である家主のカレンにさえ心を開こうとしない。

                ☆

 上で私はこのカレンのことを“vulnerabilty”を武器として戦った女性、と書いたが、物語をここまで説明すると、その後、この元教師の知性的な老婆が少年達と和解し、人の道を説きながら理性的にアパルトヘイト撤廃を求める方法を指導した・・とベタに展開していくように思われるが全くそうではない。

 結果的に言うと主人公のカレンはあの悪名高いアパルトヘイト政策を撤廃しようとする側、また擁護しようとする側、その両者と戦うことになり、さらに言うと、人間の尊厳を軽視する全てのものと戦うことになる。そして彼女の立ち居地は平和時なら誰もが持っている、人としての“真っ当な感覚”ともいうべきところだが、それすらが時に狂人の発言のように響いてしまうほどで、それが南アフリカ共和国という国の悲劇をいっそう際立たせて見せる。

 警察が市民を急襲し、暴力が常態化した世界。敵は運動家であり、警察であり、誠意の無い医者であり、教育の受けられなかった子供達でもある。ミセス・カレンは暴力じゃない方法で彼等と果敢に戦うが、それら全ては暴力によって封殺されてしまう。

 このアパルトヘイトと言う制度化された差別が引き起こす状況と戦う物語が進行する一方で、もう一つの物語があって、それは浮浪者ファーカイルとの関係だ。

 孤立無援のカレンの唯一の介添え者(理解者とか協力者では決して無い)であるファーカイルと彼女の関係は勿論性的なものではないが、もしかしたらこれを「愛」というのかと、ちょっと考えさせられた。浮浪者と余命いくばくも無い老婆のカップル。この世で考え付く限りのもっとも弱い男女と言えるが、全てが殺伐とした状況下で、このファーカイルとの会話だけがじれったさも含め人間的で、主人公にある種の救いを与えている。

               ☆  

 この小説は人間の「尊厳」についての物語。アパルトヘイトという一見特殊の状況下での話しのように見えるが、それは過激な舞台設定に過ぎない。これは程度の差はあれど私達の身の回りで日々起きていることだと言う気がする。

 “あの国のアパルトヘイトは廃止された。それでもこの作品が今読まれるのは、実は悲劇が続いているからだ。日々の新聞を見ればわかるとおり、どうやらこの間にアパルトヘイトは薄められて世界中に配布されたらしい。” (池澤夏樹 本書折込の解説より)

 主人公のカレンは元教師という設定なのでとても知性的な女性だ。歴史や詩に精通しており、無知と政治的言語で対峙してくる相手に様々に語りかける。そして、彼女は国の病と闘うとともに、自らの肉体の苦痛とも戦っていて、その辺の絡め方がクッツェーは上手いと思う。

 そして、ある状況下で決意を持った知性と結びついた時、“vulnerabilty(弱さ)”が時として武器になるということを描くのも。

 最後に浮浪者ファーカイルの腕の中で自らの死を死ぬ彼女がその闘いにおいて勝者であったか敗者であったかは・・・読者の判断に委ねられている。

|

« 朝のボレロ | トップページ | 夢を見る大豆 »

Books (71)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/186188/27019588

この記事へのトラックバック一覧です: “vulnerabilty”という武器:

« 朝のボレロ | トップページ | 夢を見る大豆 »