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9度目の歌舞伎~曽根崎心中

Photo_2 借金を苦に一家無理心中・・・といういうのは今でもたまに聞きくが、許されぬ愛ゆえに男女が共に命を絶つなんてことは現代では皆無なのじゃないだろうか?あるのか?調べた訳じゃないので良く分からんが。

 1703年、大阪曽根崎の森で実際に起きた天満屋お初と平野屋徳兵衛の心中事件は、近松門左衛門の手によってすぐに人形浄瑠璃として書き下ろされ、たちまち大評判となった。その後はしばらく途絶えていたが、近松生誕三百年の昭和28年、歌舞伎の演目として二世中村雁治郎の徳兵衛、坂田藤十郎のお初で復活上演されると、それは社会現象を巻き起こすほどだったと、解説にはある。

 昭和28年と言うと、まだ“戦後”を引きづった感がたっぷりといった時期だったと思われるが、その5年前の昭和23年には作家太宰治と山崎富江の玉川上水で入水自殺があったことからも分かるように、この頃はまだ意外にこうした「情死」というのが多かったのかと想像される。

フロイトによると人間の中心には「生=エロス」への欲動と同時に「死=タナトス」への欲動というもがあるそうで、長年、死を美徳として教えられてきた国民は、戦後、その激変した価値観にかえって戸惑い、その時の、このタナトスの権化とも言える太宰の「情死」は、ある人々にとって反社会的でありながらとても聖なる行為に見えた、と何かで読んだことがある。

私はこの『曽根崎心中』を「エロス」が「タナトス」へ変転する物語として見た。愛と死はコインの表裏として不可分で、悲劇であるのに最後に美しいと感じるのは、死が純粋に愛の成就でもあるからだ。

お初には人間国宝坂田藤十郎、徳兵衛に翫雀、油屋九平次に橋の助。特に藤十郎は今回の興行でお初上演千三百回を迎える。

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 で、そのお初だが、この女性に関しては昔、映画『曽根崎心中』で梶芽衣子が演じているのを見て以来、ずっと現代的な強い女、という印象があった。目力があって今の柴崎コウ的な顔立ち。自らの“愛=死”は徳兵衛の身の潔白を証明するための武器のようでもあって、印象は鮮烈だった。

 昨夜の舞台、藤十郎のお初にも、映画ほどではないにしろそれを感じた。喜怒哀楽がくっきりしていて、初々しい中にも意志の強さが感じられる。同じ近松でも前回見た『吉田屋』の夕霧がじっと耐える、奥ゆかしい女性なら、お初は意思表示がハッキリとした行動する女性。特にヒール役の九平次が、徳兵衛が死んだら身請けしてやると言うやいなや、それをあざ笑い、徳兵衛が死んだら自分も死ぬと言い放つ北新地天満屋での例の場面では、大向こうと一緒に声を上げそうになった。

 この『曽根崎心中』を見て、私は自分が何故、こんなに歌舞伎にハマッテいるのかが少し分かった。それは私は歌舞伎座に言うなれば“情の濃さ”を見に来ているということ。歌舞伎の演目すべては日本人の情念を芸に昇華したものと言っても過言ではなく、そして、それは“濃ければ濃い”方が面白い。

 今まで見た『盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)』、『京鹿子娘道上寺』、『鷺娘』、『勧進帳』などなども、時には人倫さえ踏み越え、死をもろともせづ、愛や信念を通し、また激情に突っ走ってしまう人々のお話。

 そしてこのお初と徳兵衛はその最たるもの。見ていて可哀相と言うよりも、途中からはアナーキーな程の強ささえ感じられた。愛ゆえの心中など現代にはなかなかありえないこの芝居を皆が食い入るように見つめるのは今の私達にそのパワーに対する憧れがあるからで、それはそのまま巷からそれが消えつつある証拠でもある。(・・・・とそんなことを書いていると、テレビで、最近歌手デヴューした山口百恵の息子のインタヴューをやっており、なんでも家でお母さんは“最近のJポップは分からない”と、言っているとのこと。なんか象徴的な話だ。)

 『曽根崎心中』は文楽では勿論のこと、宇崎竜童&阿木耀子による『ロック~曽根崎心中』というのもあり、はたまたこれも両者による『フラメンコ 曽根崎心中』は本場スペインでも高い評価を受け、なんでも“日本の『ロミオとジュリエット』”と評されたとか。そうか、この江戸の“情念の濃さ”は世界基準ということか。

 また、昨日、初めて私は浄瑠璃と三味線を意識して見た。特に天満屋の場。浄瑠璃 竹本谷太郎、 三味線 鶴澤泰治二郎。それで感じたのは文楽から来た芝居はやはり文楽でも見てみたいということだ。

 こうした情感溢れる芝居を見ると、乾燥ワカメみたいになっていた自分の気持ちが、まるで水に戻されたように感じる。昨夜、歌舞伎座を出て新橋方面へ一人歩いていると、やはり『曽根崎心中』を見た帰りと思われる女性が筋書きをしかと胸に抱え、上気した面持ちで空を仰ぎ歩いているのを見た。分かるよ、その気持ち。

 悲劇を見た後だというのに、昨夜は普段殺伐と見える夜の銀座が何故かとても優しく見えました。街の灯かりが一つに繋がって見えた。で、我が脳内BGMは前回エントリーした宇崎竜童の『夜へ』。修羅、修羅、阿修羅、修羅、慕情、嫉妬、化身・・・・・・・・・・・。

で、その後、私が何処に消えたのかは秘密。

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8度目の歌舞伎~廓文章(くるわぶんしょう)ー吉田屋

Photo_5 今のようなご時勢だと何かに“身をやつして”いる人というのはいっぱいいるのだろう。この四月大歌舞伎・夜の部2幕目『廓文章ー吉田屋』は歌舞伎で言う所の和事“やつし”芸の代表のような芝居。

 高い身分の者が何かを理由に零落し、違う立場に身をやつす。お芝居は放蕩三昧の末、家を勘当され落ちぶれの身となった主人公の藤屋伊左衛門が、二世の約束をした遊女夕霧に一目逢いたいと、阿波の大尽が餅つきをして騒ぐ新町吉田屋にやって来る所から始まる。

芝居は近松門左衛門の浄瑠璃『夕霧阿波鳴波(ゆうぎりあわのなると)』の上の巻を改作したもの。

昨夜、伊左衛門に仁左衛門。夕霧には玉三郎。

私は半月ほど前、ダンディで凄くかっこいい仁左衛門の大石内蔵助を見たばかりなので、この仁左衛門演じる蕩児伊左衛門のイカレポンチ振りの見事さには、ただただ目を丸くするばかりだった。

なよなよ、ふにゃふにゃ、動きはもはや形というより踊りに近く、しかも笑いを誘いながらも段々と色っぽくさえ見えてくる。前回の役との落差もあって、仁左衛門の役者ぶりは私にはかなり強烈に映った。

               ☆ 

 ところで、歌舞伎座に通うようになって約半年経つが、いつも思うことは平日は外人客が多いと言うこと。そして、気になるのは「どのくらい、分かってんのかなあ。。。。」と言うこと。歌舞伎座は多分、外国人観光客にとっては観光コースの一つに組み込まれていて、それで観劇している人が多いと思うのだが、音声ガイダンスを借りているのならともかく、そうでない人は大概が意味不明な表情をしている。

 昨夜、私の左隣の席は外国の女性の方で、仁左衛門の蕩児振りにはただキョトンとするばかり。こういった遊び人の所作?立ち振る舞いというのはどうやら万国l共通ではないらしい。

 仁左衛門の演技は、例えばこの物語の設定が何も分からなくても、日本人なら誰でも遊蕩の挙句身を持ち崩した男であることが分かるほどのものだ。そして、江戸時代からこのような男を表現するため、その立ち振る舞いの一挙一動を形として継承してきた日本人というのもやはり不思議な民族だと、私は妙なことに感心した。

 物語は夕霧恋しの伊左衛門と吉田屋の主人喜左衛門(我富)、そして、その女房おさき(秀太郎)とのやり取りに終始するが、物語の中盤に、ついに夕霧が姿を現す。

 この時の玉三郎演じる夕霧の美しさは、ちょっと言葉では言い表せない。それまでも緊張感溢れるいい芝居が続いていたが、その瞬間は何かもっと別の次元に移行する時ような、その位のスペクタクルを感じた。そして、その時、お隣をふと見ると、なんと両手を頬にあて“ムンクの『叫び』”のようになっていた。つまり“持って行かれちまって”いいた。さすがにここは万国共通だ。

 このお芝居の中で、伊左衛門はずっと“紙衣(かみこ)”なる衣装を身に付けている設定で、それは江戸の頃、勘当された男が身につける慣わしの紙でできた着物なのだとか。歌舞伎の舞台では主に紫っぽい色調の地に、恋文の文句がほどこされたデザインで、一目で紙衣であると分かるようになっている。

 仁左衛門演じる伊左衛門が着るこの紙衣と、玉三郎演じる夕霧のど派手な着物(あんな絢爛な着物、歌舞伎の女形以外に、着て似合う“状況”ってあるのだろうか。)が、これまたピタリとマッチしてとても贅沢なものを見せられている気になった。

 さて、伊左衛門と夕霧。伊左衛門はあんなに会いたがっていた夕霧なのに、他の客の座敷に出ていたところ見た途端に機嫌を損ね、いざ再会を果たしても冷たく当たってしまう。そして、それに泣きながら耐える夕霧。可憐で、奥ゆかしくて、可愛い。しかし、太鼓持ちが現われてやがてそれも収まると、何の説明も無いままに、突然、勘当が許され、さらにまた身請けの金まで運ばれて来る。かくして相思相愛の二人は結ばれて、絵に描いたようなハッピー・エンド。で、めでたしめでたし。

これは昨今の不況の時代に巷に溢れた多くの“やつし者”に勇気?を与える一作と言っても良いのじゃないか?。そう、その程度の不幸、笑い飛ばしてしまえってことで。古典の凄みを思い知る。

                ☆ 

毎度のこと、あわよくば今夜のうちに3幕目も・・・・と、ちょっと頭をかすめたが、同じ近松でも、3幕目の『曽根崎心中』は悲劇なので、今日はこのハッピーエンドの気持ちのまま・・・・と、昨夜はここで退散と相成った。 実は今月、これを見る予定にはしていなかったのだが、勢いで来て良いものを見た。これはとても楽しい芝居。昨夜はなんかとても得した気分だった。

で、喜劇も好きだが悲劇も好きな私は、今月は、あとどうしても『曽根崎心中』を・・・・・・見たいんだな。

いつ行こうかな。

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