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女性としての「島」、絆としての「手紙」

アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (世界文学全集 1-12) Book アルトゥーロの島/モンテ・フェルモの丘の家 (世界文学全集 1-12)

著者:エルサ モランテ,ナタリア・ギンズブルグ
販売元:河出書房新社
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 1960年代にこの「アルトゥーロの島」が映画化された時、題は『禁じられた恋の島』というものだったらしい。私は映画は見ていないが、題名からしてそれはこの小説のある部分を通俗的に解釈して膨らましたものだろうと察しが付く。

 エルサ・モランテのこの小説は本を開くとまず「この書物に登場する土地はどれも現実に地図上に存在するものであるが、ここではその土地を忠実に描写することは全く意図していない。土地の地理をはじめ、すべてが想像力の導くままに書かれている・・。」と断りがある。舞台となるプロチダ島の細部は作家の全くの想像力の産物であることが明らかにされている。

 そして、この想像の島で作家が用意した物語は、誕生と同時に母を亡くし、旅がちな父に代わり恐ろしく無口な青年に育てられた、文字通りの野生児アルトゥーロの成長譚。だが私はこれを女性性というものが少年が青年へ、大人へとなる過程にいかに働きかけるのかを描いた小説として読んだ。

 上で“通俗的”という言葉を使ったが、それはアルトゥーロと義母ヌンツァータの関係の事。旅がちな父が突然連れ帰ったこのヌンツァータは義母と言ってもアルトゥーロより僅か2歳年上なだけのまだ少女のような年頃で、父はそんな娶ったばかりのヌンツァータを島に置いたまま、また旅に出かけてしまう。

 映画はこの年若い義母と楽園のような島で暮らすことになる少年、と言った部分を多分に描きこんだものだったと思われるが、原作はそう単純な話ではない。

 第一、ヌンツァータの登場から暫くはアルトゥーロは彼女を憎んでいる。それまで父の寵愛を一身に受ける身であったのに、それを分け合わなければならない存在に対する憎しみだが、それは読んでいてヌンツァータが可哀相になる程だ。また無神論者の父子に対し、ヌンツァータは敬虔なカトリックの信者でもあって、それも「他者」に触れずに生きてきたアルトゥーロには一々奇異に映り面白くない。

 アルトゥーロがヌンツァータを女として意識し出すのが、彼女の出産に立ち会う時から始まるのはとても象徴的だ。自分を生んだと同時に死んだ母と、幼少の頃、飼っていた愛犬の最後の時の様子を重ねて彼はうろたえるが、出産後、彼の彼女に対する気持ちが段々と変化する。

 そして、その後少しして、彼は生まれたばかりの赤ちゃんを抱き、キスするヌンツァータの母親としての態度とイメージに苦しみ始める。それは「嫉妬」という苦しみ。母を知らないアルトゥーロは、ヌンツァータが赤ちゃんに日に何度もするキスに気も狂わんばかりになる。

 これほどたくさんのキスをすることがこの世にあり得るなんて、ぼくは知らなかった。ぼくはキスなど一度もしたことも、してもらったこともないというのに!<中略>はじめてのとき、ぼくは誰を選ぶだろうか。そしてぼくは、島で見る女たちとか父とか、あるいは将来の理想の友人などを思い浮かべてみるのだった。けれども、それらのキスは想像するだけでも、味気もなければ価値もないように思われた。それでもっとも素晴らしいキスを期待して、そのため一種の呪いのように、想像のなかでさえ、キスを受けるのを拒むことにした。人はキスのほんとうの幸福を知ることはできないのではないかと思われた、いちばん最初の、いちばん幸せで、いちばん甘美なキスを知らなかったら。母親のキスを知らなかったら。

 その後、自殺未遂のようなことがあり、ヌンツァータへのあてつけのように愛人をつくったりするが、ついには愛の告白と拒絶を経て、島を離れるに至る。

 このヌンツァータとの関係と平行してもう一つ同様に語られるのは父との関係。幼少期、旅がちな父を島で一人待ちながら、その想像の中で英雄と崇め、狂おしいほどに憧れていたアルトゥーロは、しかし、次第に父の実像を知るに至り、やがて永遠の別れを告げることになる。

 物語を通して父もヌンツァータも実はその人間性はほとんど変らない。アルトゥーロだけが変化していく。父やヌンツァータの変化はアルトゥーロの眼差しの変化であり、やはり、これは神話の構造を借りた成長譚と言うべきもだと思う。

 男は異性から生まれてくる。題は『アルトゥーロの島』。「島」とは母・異性のメタファーであり、その愛の葛藤を経験した青年が旅立つ物語。ラスト、ヌンツァータがアルトゥーロにとって、ありきたりな島の女としか映らないのは、良くあることだが、とても切ない。

              ☆

 さて、次はナタリア・ギンズブルグの『モンテフィルモの丘の家』だが、これは多数の人間が絶えず誰かに手紙を出していて、言わばその往復書簡をそのまま小説としている作品。はじめは他人の手紙を盗み見しているような感覚で、誰が誰なのかも分からないが、読み進めるうちに、どうやら、ジョゼッペなる男とルクレツァなる女の暮らしぶりを軸とした話であることが分かってくる。

 ルクレツァには5人の子供がいて、ジョゼッペはかつての愛人、その中の子供の一人グラツァーノはジョゼッペの子だとルクレツァは思っているが、ジョゼッペはそうは思っていない。彼はイタリアを離れアメリカに渡り、そこで兄の家に世話になるが、兄の死後、兄嫁のアンヌと結婚し、またアンヌの娘シャルタンとも関係してしまうという、そんな男。

 一方、ルクレツァにはピエロという良く出来た旦那がいたが、にも拘らず、違う男に恋し、身ごもり・・・・という女で、他にもたくさんの人物が縦横に手紙を出し合って、物語は意図せづして形作られていくといった趣向。これは作家として凄い力量だと思う。

 学生の頃、私はアメリカのビートニクスたちにイカレていたが、一番憧れたのはそのコミュニケーションに対する熱意の部分で、アレンもジャックもニールも夥しい数の手紙をj書いており、本書を読んでそれをちょっと思い出した。

 この小説の登場人物達は「家族」というものを重視しない代わりに、その友人同士がかえって擬似家族的で、そこに時代を感じさせる。

 かく言う私にも決して捨てられない手紙というのがある。そこには過去の自分とその周辺の人間関係が書かれていて、何度読み返しても時を経るほどに客観的に面白いのだが、この『モンテフィルモの丘の家』は、正にその人間関係そのものが主役のような小説だ。

 マテリアルとして在る手紙はそう簡単に“消去”出来ない。携帯メールの今では想像できないかもしれないが、それはかつて“絆”を形作る手段だった。 

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