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墓参り考

 「我が愛するエラここに眠る。感謝を捧げる。50年の幸福に。1893年7月7日永眠。・・・・ヘンリー・マクデビッド、エラに加わる。1893年9月11日。・・・・・奥さんの死後僅か2ヶ月よ。」

「うんと愛してたんだ。」

「50年の幸福。50年って長いわね。」

「休暇をのけて150学期だ。」

「愛し続ける?・・・・・ムリだわ。」

「愛し続ける。もう一週間愛してるよ。」

  映画『小さな恋のメロディー』より 

 今日は埼玉県の岩槻に妻の両親の墓参りに行った。子供達は部活等で来れず、妻と二人だけ。このお墓は私達が結婚してすぐの一番大きな買い物でもあったので、変な話、思い入れも深い。

とても不謹慎だが、墓参りに来る度、私は墓地にあるそれぞれの墓誌に刻まれた没年月日と年齢、家族構成などを見て色々と想像する癖がある。連れ合いに先立たれた後、すぐに亡くなった人、子供、もの凄く長寿な人・・・と、そこには日付と年齢しか書かれていないのに様々な物語が秘められているような気がして、想像力をくすぐられずにおれない。

また最近は墓も色々で、宗派のお題目の代わりに死者が好きだった言葉や詩などが彫られているものもあり、見るほどに興味深い。

 以前、100年カレンダーというものがあって、そこの何処かの日付が自分の死ぬ日だと思って精神がおかしくなる人の話を聞いたことがあるが、確かに私たちは誰もが、生前たとえどんな人生を送ったとしても、いつかこの日付と年齢だけの記号のような存在になる。その時、単独では後世の人に語りかけることなど何も無い。

 私は自分の死後、どのようにして欲しいなどという希望は全く無い。それは残された人間達の問題である。唯一、葬式にUA&菊池成孔の『Over the rainbow』をかけて欲しいと妻に言うと、「私、あれ嫌い」と、昨日、あっさり断られた。

 墓参りに来て墓を掃除し、花を手向けると妙に心が落ち着くのは、そこで自分もいずれ死に行く有限の存在だと確認し、死者を介して今生きている事実に手を合わせているような気になるからではないか。

 それは感謝の気持ちに似ていて、今日は何故かポジティブな気持ちでさえあった。

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