11度目の歌舞伎~暫(しばらく)
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十一代目團十郎と六代目歌右衛門―悲劇の「神」と孤高の「女帝」 (幻冬舎新書)
著者:中川 右介 |
死んで初めて、人々は彼が神であったことを知った。その神を、神として扱わなかったことを悔いた。
中川右介著 『十一代目團十郎と六代目歌右衛門』(幻冬舎新書)より
現在の第十一代市川海老蔵は10代の頃、その幼少期から続く厳しい稽古と名門の家柄を背負って立つことの重責に耐え切れず、常に反抗を繰り返していたと言う。そんな彼を立ち直らせるキッカケになったのが偶然、フィルムで見た第十一代市川團十郎、つまり彼の祖父が演じる『勧進帳』の弁慶だったとのことだが、では十代の堀越孝俊(海老蔵の本名)少年は、祖父の芸の中に一体何を見たのだろう?
彼の祖父第十一代市川團十郎は戦後、絶大な人気を誇った名優。そして上の本を読むと彼は「神」であろうとした今のところ最後の“團十郎”だったと言ってもよい人だ。
知らない人は一歌舞伎役者が「神」などと何を大袈裟な、と思ううかもしれないが、この「神」という言葉は最近良く使われる形容詞としてのそれではない。文字通り歌舞伎の市川家、市川團十郎は江戸時代には信仰の対象としてしての、紛れも無い「神」だった。
その十一代目團十郎も実は中々「團十郎」を襲名しなかった。彼の前には「劇聖」と謳われた九代目團十郎がいて、その死後から実に60年の間、歌舞伎の世界に「團十郎=神」は不在だったのだ。だが当時はその空白こそが一つの権威のようでもあり、名乗ろうなど考えても恐れ多いことだったようだ。
なので、散々迷い、ようやく襲名した後、十一代目團十郎はことさらにその「神性」にこだわる。しかし、時はあたかもアメリカから輸入された民主主義謳歌の時代、それは時に奇行と映り、必要以上に周囲との軋轢を生み、この十一代目はやがて悲劇的な死を迎える。
☆
今日見た歌舞伎十八番の内『暫(しばらく)』はまるで神事のように見えた。それは学生時代、私がイカレていたネイティブ・アメリカンをはじめとする世界の少数民族に残る儀式のようで、きっと何も知らない外国人がこれを見たら、絶対私と同様、日本の民間に残る宗教儀礼の一つと思うに違いない。
とは言え『暫(しばらく)』は何も難しいお芝居ではない。簡単に言えばこれは“仮面ライダー”(笑)。世を支配しようとする悪の一味が善良な人々を捕らえその首を切り落とそうとする。そして、まさにその首が切り落とされようとする瞬間、正義の味方鎌倉権五郎景政が現われて、その超人的な力で悪人達をやっつけるというもの。
昨日に引き続きまたまた松井今朝子女史の言説を引用するに、昔、歌舞伎の顔見世は毎年冬至の頃に行なわれ、第1幕目は必ずこの『暫(しばらく)』だったとか。そして、その一幕目は早朝から行なわれ、この一年で闇から光へと向かう転換点である日の初めに、颯爽と登場する鎌倉権五郎景政は正に江戸の人々にとって、“冬至フェスタ”に登場するヒーローそのものだった、と女史は言いう。
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昨日の海老蔵の『暫(しばらく)』についてはあるウェブ上の歌舞伎評で酷評されている一方、新聞の劇評では「荒ぶる神が舞台に降臨したよう」とあって、是非、この目で確かめたいと思い一人出掛けてきたが、それで、私の感想はと言えば・・・・上のウェブ上での酷評も「荒ぶる神が・・・・」という表現もどちらも当たっていると思った。
つまり、芸としてはまだ成長すべき点があるものの「神」としての存在感は十分で、私は善良な人たちの首が切り落とされようとしたその時、花道の奥から「しーーーばーーあーらーーくーー。」と声が聞こえてきた時、体内で眠っていた「江戸部族」とも言うべきネイティブの血が、ザワザワと蠢くのを感じた。
今日の鎌倉権五郎の登場時の花道でのセリフは口上のようでもあった。「スジを通すは親父譲り・・・・」のセリフのあと、海老蔵はこの歌舞伎座が来春でなくなること、そして、新しい歌舞伎座になっても歌舞伎は永遠である・・・・というようなことを高らかに宣言し、喝采を浴びていました。他の出演者たちも、彼を役名ではなく、「成田屋の海老サマ」と呼んだりして、それだけで彼の現在の歌舞伎界での立ち位置を思い知るようでもあった。
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最近、私はまるで教会に通う日曜日の信者のように足しげく歌舞伎座に通っているが、今日の教会=歌舞伎座には確かに「神」がいた。神の名前は第十一代市川海老蔵。私たちはこの海老蔵が第十三代市川團十郎になるところがきっと見れる。私は世の女性たちが注ぐのとはまた違う視線で、彼をづっと見続けていこうと思った。では最後に彼自身の言葉。
(市川家の芸「荒事」の精神についてどう考えるかと問われて)
直接的に言うと「神」なんです。初代團十郎から始って、それぞれの時代の中で神々しいまでの力を身につけた祖先たちがいる。そういう在り方を追求していきたいです。それが市川家のスピリッツだと思っています。
「婦人公論」2008年3月22日号、篠山紀信との対談より
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