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『対岸の彼女』~あらかじめ踏みにじられているイノセンス

対岸の彼女 (文春文庫) Book 対岸の彼女 (文春文庫)

著者:角田 光代
販売元:文藝春秋
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 陽気で優しく、自信に溢れ、、テキパキと仕事をこなし、誰からも愛されるキャラクターに出会うと、多くはその人のことを世の悪意や醜さといったものと無縁でいられるシアワセな環境ですくすくと育ってきた人と思うのではないだろうか。それはある種の幸運によって保護され続けたイノセンスの結果なのだと。

 この小説の主人公の一人小夜子が始めて葵に会った時もきっと同様に思ったに違いない。小夜子が娘を遊ばせる際の“公園デヴュー”もおぼつかない内気性格なのに対し、葵は同じ35才でありながらさばさばとした性格で、自信に溢れたヴェンチャー企業の女社長。経済的な理由より自分の内気な性格をどうにかしたい一心で出かけた面接先で小夜子は葵と出会う。

 この小説は奇数章に小夜子が葵の会社で働き始めてから以後の物語が、偶数章に葵の高校時代の物語が交互に語られる。そして偶数章で語られる葵は奇数章の彼女とは似ても似つかない長年いじめに合った経験を持つ繊細で内気な女子高生である。中学を卒業し、これを機にと家族で越してきた群馬県の高校で、葵は魚子(ナナコ)という名の少女と友達になる。魚子(ナナコ)は始まりから、またいじめに合うのではないかと身構えている葵の懐に屈託なく飛び込んできては葵を驚かせる。

 いつも思っていたのだ。だれか、気持ちの優しい、顔立ちの整った、クラスでも人気者の女の子が、自分と仲良くしたいと言ってくれ、葵が無理に誘わずともこうして遊びに来てくれ、笑いかけてくれる、そんななんでもない光景を、葵は今まで何度も何度も何度も夢想してきたのだった。テーブルにつく童顔のクラスメイトを葵はまじまじと見、ふいに背中を向けて台所へかけこんだ。泣いてしまいそうになったのを、見られるわけにはいかなかった。(本書P45から抜粋)

 そして、別のシーンで葵はナナコにこんな風に言う。「いいなあ、ナナコは。こわいことがなくて。きっとナナコってさあ、すっごいしあわせに生きてきた人でしょう。人に嫌われたこととかないでしょ。兄弟喧嘩したこともなくって、おかあさんはすごくやさしくて、なーんでも思い通りになっちゃって。」と。

 しかし、この二人の「イノセンス」はあらかじめ踏みにじられている。友達と言いつつ葵は、自らがいじめに遭った経験から、誰とでも仲良くできる八方美人的な魚子(ナナコ)を、やがていじめの対象になるのではないかと読んでいて、その時、自分が巻き添えになるのを恐れて皆がいる前では決して彼女に声をかけない。二人はいつも学校から2、3離れた駅で待ち合わせしていて、そんな葵の打算を魚子(ナナコ)は軽く許している。だから二人が会っている時の、何処にでもいる女子高生同士のような会話やシーンは、踏みにじられながらも僅かに残った「イノセント」な部分をなんとか捻出し持ち寄った時間でもある。

 二人は何よりもこの「普通の」女子高生的な時間をかけがえなく思い、それをいつまでも持続させたくて夏休みにペンションでのバイトに出かける。そして一夏やり遂げた後の家へ帰ろうとする駅のホームで、突如、魚子(ナナコ)の「イノセンス」もまた大きく踏みにじられていたことが露呈する。「帰りたくない」とナナコは泣く。弾かれたように逃避行を始める二人。そして、やがてある事件が起きるー。

               ☆

 この小説の宣伝文句を見ると大体が「勝ち組」と「負け組」の女同士の間に友情は成立するか?といった類の紹介がされているが、これはそんな小説ではない。これは人が人に出会うということの切なさを描いた小説である。本当の出会いというのは人の内部を大きく変化させるが、同じ場所で同じものを見、束の間の幸福を過ごす少女達は、だが、互いが相手に変化をもたらす存在であることに気づかない。二人が起こしてしまう事件は互いの変化があるレベルで一致し共鳴した結果であり、その変化はそこで交差した後、どんどんと距離を伸ばし、やがて別れがくる。

 奇数章で小夜子が、葵がかつて世間を騒がした事件の当事者と知って、その後、相手の少女とはどうなったのかと質問すると、葵はおもしろおかしく語り、その後一度も会っていないと言って小夜子を失望させるが、しばらくして、小夜子は気づく。

 なぜそれきり会わなかったのか小夜子はふいに理解する。連絡しなかったのではない。子供だからすぐ忘れてしまったのではない。葵ももうひとりの女の子も、恐かったのだ。同じものを見ていたはずの相手が、違う場所にいると知ることが。それぞれ高校を出、別の場所にいき、まったく異なるものを見て、かわってしまったであろう相手に連絡をとることがこわかったー。(本書313Pから抜粋)。

 事件後、葵の父の計らいで印象的な再会を果たした後、葵とナナコは二度と会うことは無い。しかし、葵はその後もナナコという少女に出会った痕跡を自らの内に抱え生きていく。ナナコはどうだったのだろう?と私は思わずにいられないが、その後のナナコに関してはこの小説には一切触れられていない。ただ、偶数章の「アオちん」が奇数章の「葵」に生まれ変わるようなシーンとして、彼女が大学時代旅したラオスの路上での出来事が書かれているが、深読みすれば、その時、葵はナナコになったのだと私は思う。

 奇数章の最後、一度、葵の会社を辞めた小夜子がもう一度葵とやり直そうとする場面、雑然とした部屋を片付ける小夜子の目に唐突に飛び込んでくるナナコの丸文字の拙い手紙は残酷でもあり、美しくもある。

それは再現不能な過去の関係の遺物でもあれば、現在の葵の強さが、かつての親友となんとか持ち寄ったイノセンスの果てにあることの証でもあるからだ。

 かつてのナナコのような葵の亀裂を、かつての葵のような小夜子が覗いている。しかし、二人の出会いが互いにもたらした変化に共鳴しているのは、この場合、青臭いイノセンスではない。

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