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『ロング・グッドバイ』~To say goodbye is to die a littl.

4170kpoqyl__sl500_aa300__3  うーん。こういう小説だったかな。『ロング・グッドバイ』って。この夏の間、ずっとこれを読んでいたのだが、今回、長年この小説に対して抱いていた印象が少し変った。と言っても私がハヤカワ文庫の『長いお別れ』(清水俊二訳)を初めて読んだのは高校生の頃のことで、その時の感想にしたって、ストーリーがやたら面白いハードボイルド小説の代表作、という程度のものだったが。

 村上春樹訳ということで文章の印象が以前と違うということがもちろん大きいが、なんでも以前の訳は原作の細部をカットした、言わば抄訳といったものだったらしく、初訳が出た1958年当時はミステリーとかハードボイルドといったジャンルの小説はだいたいその雰囲気さえ伝われば良い、みたいなノリだったのだろうとのこと。

 つまりテレビで放送されたカット版の映画を長く愛好していたところを、年月を経た後に思いがけず完全版を見せられたようなことになって、結果、これはアメリカ文学という大きな枠で捉えても、もう十分に古典と言うに相応しい風格を持った作品なのだなとの思いを新たにさせられた。

 またあとがき解説での、この『ロング・グッドバイ』をフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を下敷きにしたもの、とする村上氏の説も読んで目からウロコだった。まさか、と思ったがフィッツジェラルドとチャンドラーの両者を長年にわたり敬愛し続けた氏の考察は見事でおおいに納得させられる。(チャンドラーはフィッツジェラルドの愛読者で、しかも映画関係の仕事をしていた際、『グレイト・ギャツビー』を映画化しようとしていたのだという初めって知った)。

 簡単に図式化すればフィリップ・マーロウ=ニック・キャラウェイ、テリー・レノックス=ジェイ・ギャツビーということだが、それでいけば村上氏の名作『羊をめぐる冒険』はこの『ロング・グッドバイ』のオマージュでもあるので、それに“僕”と“鼠”の関係を加えると何か鮮明になるものがある。

 これらは他者の中に自らの分身を見てしまった者の物語だ。だからニックはギャツビーのどんちゃん騒ぎを見続けねばならないし、“僕”は“鼠”から送られてきた写真の中の羊を探さなければならず、またマーロウはテリーの無罪のために危険を犯さねばならない。

 だいたいマーロウに関して言えば酔っ払っているテリーを二度助け、その後バーに行って数回ギムレットを飲んだだけで何故そうまでするのか?これまでハードボイルド小説らしく“男の友情”的な文脈で理解しようとしていて疑問に残った部分だが、内なるもう一人の自己のために戦っている、と考えるとその行動原理に理解がいく。

 どんな証拠を突きつけられてもマーロウのテリーが無罪であるとの考えは揺らがない。そして、それは「俺は絶対にこんなことはしない。」と言うのと同じで、もし、そこが崩れれば自分が自分でなくなってしまうのをマーロウは知っているのだ。

 そして、この新訳で大きく変ったものはもう一つあって、それはかの有名な“さよならとは少しの間死ぬこと”という例のセリフ。原文は“To say goodbye is to die a little ”だが、村上氏はこれを“さよならとは少しだけ死ぬこと”と訳した。原文を読む限り、私個人としては村上訳の方が本来の意味に近いような気がするが。

 “~少しの間”と“~少しだけ”。相当に意味が違うが、自分の分身とも思える人とさよならを言った経験からすると・・・・・やはり村上訳の方が正しい気がするな。

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