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17度目の歌舞伎~仮名手本忠臣蔵

仮名手本忠臣蔵 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1)) Book 仮名手本忠臣蔵 (橋本治・岡田嘉夫の歌舞伎絵巻 (1))

著者:竹田 出雲,並木 千柳,三好 松洛,橋本 治
販売元:ポプラ社
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 さて、カテゴリー『歌舞伎』で過去のエントリーを見ると、私が初めて歌舞伎座に出向いたのは去年の11月1日のことだから、それから早くも1年が過ぎたことになる。うーん、結構、見たな。まだまだ足りないが。

昨日買った筋書きによれば江戸の頃から毎年この11月は“顔見世”と言って、向こう1年間の顔ぶれを披露する大事な興行だったとのこと。そうか、偶然の事とは言え、去年、丁度いい時から歌舞伎を見始めたんだな、私は。

さて、昨夜はその11月吉例顔見世大歌舞伎で『仮名手本忠臣蔵』。

 先月の『義経千本桜』と並び歌舞伎狂言の名作中の名作。この忠臣蔵、3月の真山青果作『元禄忠臣蔵』の時は長い物語の中のどの「場」を見るか散々迷ったが、今回は最初から“討ち入り”を見ようと決めていた。『元禄~』ではこの討ち入りは『仙石屋敷』の詮議の場での台詞回しで表現されていて、それはそれで良かったが、どうしても1度芝居の舞台でこのシーンを見たかった。

となると討ち入りは知っての通りクライマックスにあたる部分なので夜の部となるわけだが、今回の夜の部は五段目・山崎街道鉄砲渡しの場・同二つ玉の場と、六段目・与市兵衛内勘平切腹の場で一幕、七段目・祇園一力茶屋の場と十一段目・高家表門討ち入りの場以下、で一幕と分かれていて、当然、私は七段目からを見ることになった。

七段目、由良之助に仁左衛門、お軽に福助、寺岡平右衛門に幸四郎、斧九太夫に錦吾、鷺坂伴内に松之助。

 この七段目は茶屋で遊興に耽る大星由良之助=大石内蔵助がついにあだ討ちの意志を明らかにする場。茶屋には5・6段目で祇園に売られた勘平の妻お軽(福助)がいて、そこに兄の平右衛門(幸四郎)がやってきて兄妹の情愛溢れる物語がそれに絡む。

 派手に遊んでいる由良之助の真意を確かめようと塩治の元家臣達が茶屋にやってくるが、遊び呆けている彼に失望し切りかかろうとしたりする。また、元は塩治の家臣なのに褒美に転び今は高師直側についた斧九太夫もやってきて何かと様子を伺っている。

特に九太夫が塩治判官=浅野匠頭の命日で本来なら魚肉を食するのを避け精進すべきところにわざと酒を用意させ蛸を薦めると、由良之助はそれなら鳥を絞め鳥鍋にしようなどと言うものだから、周囲は呆れ、益々あだ討ちの意志無しと見る。由良之助の刀を見ると、それを裏付けるかのように鞘から抜けないほどに錆びている。

 この場の由良之助は遊び人に風の艶っぽさと同時にあだ討ちの意志を内に秘めたダンディさをも表現せねばならず、『仮名手本~』の中で一番難しい由良之助と言われている。が、さすが我が仁左衛門は見事。私は彼の遊び人に身をやつすいわゆる“やつし”芸は『吉田屋』で、また凛々しくダンディな内蔵助は『仙石屋敷』で見ているので、この場はそれを繊細に使い分けているように見え惚れ惚れした。

 最後、縁の下に隠れ様子を探っていた九太夫をお軽の手で引きずり出させると、地面に擦り付けるように押さえ込み「獅子身中の虫とは己がことよ」と一喝。ここぞとばかりの気迫の演技で大向こうが一斉に叫んでいた。

 そして主君の命日によくも俺の口に魚肉をつきつけやがったな!みたいなセリフ。それまでデレデレした雰囲気だったせいか、一転してのこの場面、しびれた。

 続く11段目はいよいよ討ち入りだ。ここは「高家表門討ち入りの場」「同奥庭泉水の場」「同炭部屋本懐の場」「引き上げの場」と4場に分かれている。そして“表門討ち入りの場”で勢ぞろいした志士たちの壮観さ。これが見たかった。続く“奥庭~”での立ち回りは多分、この一年で私が見た芝居の中で一番激しいアクションシーン。演じるは小林平八郎(歌昇)と竹森喜多八(錦之介)。戦いというより激しい舞のようで、目が離せず楽しめた。

 そして、本懐をとげいよいよ最後の引き上げだが、由良之助はゆっくりとゆっくりと花道を去っ行く。見送るのは馬上の旗本服部逸郎(梅玉)。で、この“ゆっくり”が、長大な物語の余韻になっていると思うのだが、それはその前の段をどれだけ多く、また深く見たかによって感じる度合いが違うだろうなと思うと、ちょっと悔しかった。

                                                ☆

 この『仮名手本忠臣蔵』、以前は全部の段を一度に通して見たいなどと思っていたが、こうして各段各段が長く内容が濃いのが分かると、いかに自分が無知であったかが思い知らされる。(妻には「あなたみたいな人はテレ東の12時間時代劇みたいのを見てるのが一番よ」と言われたがその通りかも。)

 しかし、一段一段がさらに長大な物語を形作っているのも確かなので全てを知らないと部分の理解が浅くなるのもまた事実。後は本などで読むしかないと思うが、紹介したいのが↑のアフェリにある絵本。このシリーズは他にも『菅原伝授手習鑑』などもあって、これから歌舞伎を見ようという人の予習グッズとしてもお勧めかも。また某週刊誌で安野光雅氏の絵入りで連載も確かしているので、これも一冊の本になったら読んで見たいと思っている。

丁度1年経った歌舞伎鑑賞。見れば見るほど面白くて、奥が深い。まだまだ若葉マーク付き。で、まだまだ行く。

来月はクドカンの『大江戸りびんぐでっど』。歌舞伎でクドカンって・・どうなんだろうな。

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海老蔵の婚約

Photo  秋が深まり、これから冬に向かっていこうとするこの時期に夏の話というのも恐縮だが、この夏私は仕事場で朝顔を育てていた。

 梅雨空のある日、事務所の近くの花屋の店先に様々な品種の苗が売られていて、中の“団十郎”なる一つを名前につられて衝動買いしてしまったのだ。「小さい苗の今は新太郎、ちょっと成長し、蔓が延びてきたら海老蔵、花を咲かせたら団十郎。」などと言って勝手に盛り上がっていたのだが、職場の数人も何かと気にかけてくれるようになった。

 蔓を絡める為の添え木を何本か持って来てくれたりする人もいて、「こっちの棒がR・Y(某有名女優さんのイニシャルです)、で、こっちの某がE・S(こちらもグラビア出身の女優さんのイニシャルです、ハイ)。」などと言って皆で笑っていた。「段々、E・Sのほうに延びてきましたねぇ・・・。」と言った具合に。

何故、急にこんな話をするかというと、もちろん、昨日(もう一昨日か)市川海老蔵と小林麻央の婚約のニュースがあったから。結婚の決め手となったものは何かと尋ねられて海老蔵は「心が美しいから。もちろん、容姿も美しいが。」と答えていた。嫁姑の問題が起きたら?の質問には「お互い穏やかな人。しないでしょう」との答え。そして「ぼくはずっと愛し続けます。」

 恥ずかしながら私は小林麻央と言う人を知らなかった。と言うか、正確には顔と名前が一致しなかった。ただ、以前、私が嫌いな関西系お笑いの大御所が司会をするバラエティをたまたま見て、下卑た質問に真っ当に答えて「カマトト振るんやない!」みたいなノリでハリセンで叩かれている人がいて、きれいな人だなと思って顔は覚えていた。叩かれて彼女は眼が涙目になっていたが、取り囲む醜い若い女たちがそれを見てさらに笑って、私は腹立たしかった。

 海老蔵の発言の中で一際目を引くのは「心が美しい」という言葉。彼の場合、全く女性に縁がなかった男が恋にとち狂って言っているのとはわけが違うから、小林麻央さん、よっぽど素敵な女性なのでしょうな。人の心のどういったところを“美しい”と感じるかは千差万別だが、子供のようなイノセンスとは違い、それはやはり他者との関わりの中で磨かれていくものだと、想像する。たいていは損なわれたり世慣れていってしまうのだが、中にはどんな苦境や悪意の中にあってさえ無理にでもそこに良い面を探し出し、それで一身に「心」を磨いていく(磨かれていく)人もいる。そして、そうした人はやはり美しい心をさりげなく獲得している。

 大事なのは素直さということ。上のバラエティで小林さんはとても素直で正直で、それが馬鹿女どもの嘲笑の的になっていたが、周囲の醜さと対比してそれは小林さんの美しさをかえって際立たせていた。それで名前もろくに覚えなかったのにその美しさのみを私は覚えていたという次第。今時、こんな娘もいるのか、と。

 海老蔵は本物なので、やはり本物は本物を見抜く力があるということか。若い頃、散々遊んでいたとしても、それをいつまでもやっていると男も貧相だなあ、と思っていたところだったので、そこはさすがと言ったところ。

 海老蔵はきっと第十三代市川団十郎になる。その時、このように美しい人が隣にいると思うとなんか良いなあ、と思う。

 芸能人の結婚のニュースなど全く興味の無い私だが、この二人は応援しようと思った。

 海老蔵、1本の添え木に真っ直ぐ伸びていけよ。

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漫画『グーグーだって猫である』~Love Life

Photo_3  これはエッセイ漫画なので主人公は著者の大島弓子さんだろうし、また、登場するたくさんの猫達だとも言えるのだけど、本当は“愛”というものの正体を描いた漫画なのだと思う。それは崇高な哲学や観念や一方的な思い込みではなくて、見かえりを求めず、ただ命の温かさのそばにいて触れていたい、またそれを守り慈しみたいという純粋な欲求のことだ。そして、そのような暮らしが身体に残していくであろう記憶の積み重ねのことだ。 

 

 この漫画を読んで、私自身、封印していたつもりの今は亡き愛猫くんに関する様々な思い出が体中からゴボゴボと吹きこぼれてきてしまった。爪を切ってやるときの爪の先を飛び出させようとして押す肉球の感触とか、寝ている布団の上に乗って来たときの重さや潜りこんで来たときの温かさ、そして目覚めたとき、いつも頬に触れていたその毛のくすぐったさエトセトラエトセトラ・・・・。

 

 それらが当たり前にある日常は遠くから眺めなければ分からない点描画の一点に似て、普段は気にも留めないが、遠く離れて見るととても大きな絵になっていたりする。そして、極稀にその一点の美しさに普段から気づいている人がいて、大島弓子さんはきっとそんな人なのだと思う。

 

 実際に漫画第4巻の中にこんなエピソードがある。猫はどんどん増えていくが、その中でも主要な一匹であるビーが突然いなくなってしまう。どんなに外に遊びに行っていても必ず夕方の5時には帰ってきてごはんを催促するビーだが、その日はそれがない。

 

41d0qkhwgl__sl500_aa300_  その視線がないということだけで大島さんは異変を感じ取り、気が狂わんばかりになってビーを探す。他の猫たちも一緒になって探す。いくら金がかかろうと、毎日、納豆ごはんになってもいいからと“ペット探偵”なる高額な輩も雇って探す。そして、探すうちに動物実験に使うためにペット達を拉致する“猫取り”のこととか、近所に猫達を閉じ込めてしまう心無い家があるとかの情報を得て、その不安はピークに達する。「私はこの恐怖に耐えられるだろうか?」大島さんはそう書いている。そう、愛には恐怖が伴う。喪失と、また愛するものが不当な暴力によって傷つけられているのではないかと想像する恐怖が。

 

 結局、ビーは自分で戻ってくる。疲れ果て薄汚れて。勿論、猫は言葉を喋れないからその間、何があったか知る術はないのだが、このエピソードの最後にこんな言葉がある。「ビーがそこに眠っている。それだけで今までの苦しみはうそのように無い。」「何が欠けても一瞬にして崩れる日常の幸福。今ここにあるのだった。」

 

 私はこのエピソードに関しては漫画として読めなかった。私の場合、猫ではなく子供だったが。そして、この件には他者を受け入れ愛するということは、その対象がたとえ猫であってさえもそのような心の試練と不可分なことを教えてくれる。逆説的にそれに立ち向かう覚悟が無い人は一生愛を経験できないのだ。

 

 この漫画は現在4巻まで出ていて連載は継続中らしいが、私は仕事場の大の大島弓子ファンという方に全巻借りて最初から一気に読んだ。それで気づいたことだが、1巻冒頭になぜかライアル・ワトソンの“ものにも魂がある”という言葉が出てくる。そして、座布団や冷蔵庫や洗濯機の気持ちを推し量ったり、話しかけたりするシーンから始る。

 

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 なぜ猫の話をここからはじめるのだろう?と初め不思議に思って読み始めたが、その後、長年連れ添った猫サバの死が語られ、自身のガン体験が語られ・・・としていくうちにハタと気がついた。上のライアル・ワトソンの言葉は突き詰めると同じ地球上に発生した全ての物質は生命・非生命の区別なく宇宙の大きな循環と連鎖の中にあるので、地球を<ガイヤ>という大きな意志を持った生命体として考えた場合、それは仲間とも言うべきものだという意味が(多分)あり、これはネイティブ・アメリカンやその他の先住民たちの持っている思想・メンタリティと同じである。

 

 そして、この視点から物語が始められことに思いを馳せると、その後の猫たちとの話に突如コズミックな響きが加わることに気づく。誕生と死と、その間に横たわるガラス細工のように繊細な日常。洗濯機やプリンターにまで意志を感じ取る大島さんにとってはもはや猫はただの猫ではない。自身のガン体験は漫画の中ではサラリと時にユーモラスにさえ語られているが、本当は激越な死の恐怖とそれを乗り越えようとする努力があった筈で、猫達はその時、宇宙的な命の輝きと循環の象徴そのものだった筈だ。

 

9784041006917  猫は巻を重ねるごとにどんどん増えていくが、主要な猫は4匹である。グーグーとビーとクロとタマ。どれも大島さんの極上の愛の賜物とも言うべき可愛さだが、私はやはりグーグーが一番好きだ。そしてこのグーグーこそが大島さんの思想の“化身”とも思える猫なのだと思う。どんな子猫がやってきても威嚇せず、恐がらず、猫キスをして大らかに受け入れるグーグー。そして必要以上にかまわずに泰然自若としている。

 

 また漫画にはもう一つ隠れたメッセージも感じ取れて、それは「都市と自然の共存」ということ。舞台は吉祥寺で、私も長年住んでいた街なので余計親近感が沸くのだが、このようなテーマを考えるのにあの街は格好の場所だと言っても良い。考えてみれば猫は自然そのもので本来コントロール不能なものだけど、4巻の最後にはついには住処を追われた狸まで出てきて、今後の展開が楽しみといったところ。しかし、今の吉祥寺、武蔵野界隈にまだ狸がいるのか・・・目からウロコな話である。

 

 先日、本屋で立ち読みしていたら「<恋>は下心で<愛>は真心」という言葉に出くわした。筆談ホステスとか言う人の語録集みたいな本だったけど、それでいくとやはりこの漫画は愛の物語だ。愛のある暮らし。Love Life。大島さんがクレイジーなまでに猫=命への愛に突き進む様が心地良い。いつだって当たり前のことを迷いなく平気でやってのける人は偉大だ。

 

 真心という宇宙的な愛が天使のような猫達注がれている。

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「本日、天気晴朗ナレドモ・・・」

 

Photo_7  「本日、天気晴朗ナレドモ波高シ・・・・。」 今日はアクアラインで海ホタルへ行き (『20世紀少年』でここをアルカトラズ島のような監獄にしたてた浦沢直樹の想像力に脱帽!)、それから千葉へ。新鮮な魚を食って酒を飲んで風呂に入ってその後はフェリーで横須賀へ。三笠公園では戦艦三笠を見る。オレは東郷平八郎の立位置じゃなく、秋山真之の位置に立った。「本日、天気晴朗ナレドモ・・・・」

 

 写真はフェーリーに乗っている時、追いかけてきた“ジョナサン・リビングストン・シーガル”。

 

 

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to Vodka

 


途絶えた日記帳の
白いページの中から
突如、神の化身の如き数頭の馬たちが駆け出して
ぼくの空に
馬蹄形の足跡を残して走り去る

 

外れた気象予報士や
海図を読み違えた航海士の気持ちを知りたければ
君も馬券を買うこと
突然の稲妻と予期せぬ潮の流れが
あの5歳牝馬の
血の中にもあるから

暮れるに早い11月のメイン・レース
第四コーナーから最後の直線で
ついに明らかになるミステリーの結末に
群集は叫び、驚愕し
やがて誰もが
巨大な寂寥に散乱する
一個の漂流物になる

 

「長らく神の傑作(マスター・ピース)は
人間の♀と思っていたが
どうやらそれは
間違いのようで」

 

週末 
ぼくは競馬新聞を買い
大通りに面したカフェのテーブルで
性懲りも無く また
ダートの砂埃と
緑の芝が波打つ海に
牝馬(びじょ)の末脚を求めて

航海に出る


 昨日の日曜日、秋の天皇賞に行ってきた。一番人気は「史上最強牝馬(ひんば)から世代最強へ」と銘打たれたウォッカ。毎日王冠ではカンパニーに敗れたが、今回はよもやそんなことはあるまいと思っていたので、その結末に私を含め一緒に行った仲間3人ともしばらく口がきけないほどだった。

 しかし、そんな悔しさはさておき、最前列で見ていた私たちは出走前の今をときめく名馬たちを至近距離で見ることができた。サラブレッドたちは本当に美しくてちゃんとしたカメラを持っていかなかったことをとても後悔した。特にウォッカちゃんは噂どおりの美女だった。

 次はやってくれるよね?頼んだよ。

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