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19度目の歌舞伎~松浦の太鼓

 年明け初の歌舞伎座。もっと正月気分の頃に来たかったが、この壽新春大歌舞伎は正月2日にテレビ中継されたやつを見てしまった。。『菅原伝授手習鑑~車引き』、『京鹿子娘道成寺』、『与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』と、つまり夜の部ほぼ全部。

そうなると自然、見るなら昼の部の演目からとなるが、私が今日見ようと目論んでいたのは実はまたもや『勧進帳』。

『勧進帳』は過去に吉衛門と幸四郎の弁慶で2度見ている。が、これは元々市川家のお家芸、当代団十郎の弁慶を見ずしてなんとするとの思いで出掛けたが、遅かった。着いた頃には幕見のチケット売り場は長蛇の列、係員に「今並んでも、定員オーヴァーで『勧進帳』はご覧いただけません。」と言われてしまった。

20140104175958bb4_2  で、結局、見たのは『松浦の太鼓』。『勧進帳』に関しては“3度も見るのは・・・”と、ちょっと怯んでもいたのでこれならこれで良いと思い直した次第。テレビでワンシーンだけやっていて面白うそうな印象だったのですぐに気持ちの切り替えはできた。

この芝居はいわゆる忠臣蔵外伝というもの。安政三年(1856)、三世瀬川如皐と三世桜田治助が合作した『新台いろは書始』を明治になり勝能進が改作、さらにこの中の大石内蔵助が打つ陣太鼓の音で隣の主が討ち入りを悟る場面だけを独立させ『松浦の太鼓』としたもの。

松浦鎮信に吉衛門、宝井其角に歌六、大高源吾に梅玉、お縫に芝雀。

                  ☆ 

煤竹売りに身をやつしている赤穂浪士の一人大高源吾は宝井其角なる俳人から俳句のてほどきを受ける仲。芝居の初め、両国橋のたもとで其角の詠んだ上の句に源吾は不思議な下の句をつける。

 この其角は松浦鎮信なる大名のところにも俳句を教えるため出入りしていて、また、上述の浪士源吾の妹お縫も其角の口利きで鎮信の腰元となっている。松浦鎮信は赤穂浪士に同情的な大名だが、いつまでもあだ討ちしない大石内蔵助以下に業を煮やしてもいて、そんなところから源吾の妹お縫についつい辛くあたってしまう。

 その後、鎮信は最初に其角の句に源吾がつけた下の句が討ち入りを予告するものだと真意に思い至たり、丁度その時、討ち入りを告げる陣屋太鼓が鳴り鎮信は驚喜する。そして、自分も助太刀に行くと言いだすが・・・・・。

 この松浦鎮信という大名は風流を解し大変貫禄があるが、何処かひょうきんで愛嬌のある人物でもある。そこのところ吉衛門は本当に上手く演じていた。

 筋書きを読むとこの『松浦の太鼓』は秀山十種の内と言って、『勧進帳』など歌舞伎十八番の内が市川家のお家芸であるなら、これは初代吉衛門の当たり役を表すものらしく、この播磨屋の芸の真髄、当代吉衛門にしっかり伝えれているということか。

                   ☆

 さて、“歌舞伎座さよなら公演”と言いつつ1年が過ぎたが、年が明けるとさすがにいよいよといった感じが俄然強くなってきた。客足もさらに多くなっているようで、残り3ヶ月、私のような幕見席の住人は思いやられるが、今日、チラシでついに最後の4月の演目を知った。勿論、2月、3月も見たい演目が目白押しで、いよいよクライマックスに向けてまた通い詰める日々が始まってしまいそうで少し恐い。

今日、電光板を見ると残り97日。

歌舞伎座さよなら公演、そろそろ、第4コーナーにさしかかってきた。 

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『二十歳の原点』~煙草と笛

201_1  最近の制度だと、時々どういう意味合いで今日が休日なのか分からない時がある。実は本日も危うくそんな感じになりそうだったのだが、昨日、ラジオでこの本が紹介されているのを聞いて、それで“成人の日”だと知った次第。

 この本は二十歳の頃読んだ。私が二十歳の頃はまだかつて学生運動をやっていた世代が元気で、バブル世代に属する私達は“最近の若いモンは頭が空っぽで何も考えちゃいねぇ”的な文脈で飲み屋などでからまれたりするのが常だったが、この本もそんなノリである人に薦められて読んだ記憶がある。

私は昨日までこの本を『二十歳(はたち)の原点』だと思っていた。が、正式には『二十歳(にじゅっさい)の原点』と読むらしい。小さいことだが20年以上間違って覚えていたと思うとなんかショックだった。

本書の著書高野悦子さんは学生運動が激化する1969年、立命館大学の学生だったが、自らの理想とする自己と現実の自分とのギャップに悩み鉄道自殺する。日記が死後発見され、父親の手で整理・出版されたその日記は当時ベストセラーとなった。

 当たり前だが、この本を“今の若いもんはなっちゃいない”→“昔はこんなに真剣だった”みたいに紹介するのは間違っている。昨日のラジオでも言っていたし私も同感だったのは、これは若くして自死した人のネガティブなものではなく、毎日を真剣に生きた人が書いたものとして普遍的でポジティブにも読める書だということ。そして今だってこのように日々を生きている若い人がいることを私は知っている。

 実際読むと、高野さんの日常は今の人たちとなんら変るところはない。バイトして、恋をして・・・ただ、今と違うのはあの時代には、例の“革命騒ぎ”があると言うところくらいか。ただ、彼女は感受性が非常に強く、繊細で、その分精神の働かせ方がフル回転していて、その1点においてはパワフルとさえ言える。ただ、「独りであること。未熟であること。これが私の二十歳の原点である。」と本書の題名ともなった有名な言葉があるが、あまりにも(必要以上に)独りでありすぎた、と私は思う。

 この本の中には随所に彼女の詩が出てくる。彼女はものを創る人間になりたいという欲求が強くて、それが上手くできない自分に傷つくのだが、彼女の詩はいちいち素晴らしく、私はこの時点で彼女はもう立派な詩人なのではないかとさえ思う。特に死の2日前に書かれたという最後の詩は息を呑むほど素晴らしく、それは彼女の生への希望と憧れ、潔癖なまでの孤独と、そして特定の固有名詞など出てこないのに1969年という時代までが読み込まれているようである。そして哀しいまでの静けさと緊張感があって彼女がどのように生きた人かが分かる。    

 

  旅に出よう
  テントとシュラフの入ったザックをしょい
  ポケットには一箱の煙草と笛をもち
  旅に出よう

  出発の日は雨がよい
  霧のようにやわらかい春の雨の日がよい
  萌え出でた若芽がしっとりとぬれながら

  そして富士の山にあるという
  原始林の中にゆこう
  ゆっくりとあせることなく

  大きな杉の古木にきたら
  一層暗いその根本に腰をおろして休もう
  そして独占の機械工場で作られた一箱の煙草を取り出して
  暗い古樹の下で一本の煙草を喫おう

  近代社会の臭いのする その煙を
  古木よ おまえは何と感じるか

  原始林の中にあるという湖をさがそう
  そしてその岸辺にたたずんで
  一本の煙草を喫おう
  煙をすべて吐き出して
  ザックのかたわらで静かに休もう

  原始林を暗やみが包みこむ頃になったら
  湖に小舟をうかべよう

  衣服を脱ぎすて
  すべらかな肌をやみにつつみ
  左手に笛をもって
  湖の水面を暗やみの中に漂いながら
  笛をふこう

  小舟の幽かなるうつろいのさざめきの中
  中天より涼風を肌に流させながら
  静かに眠ろう
  そしてただ笛を深い湖底に沈ませよう

 

 詩を解釈したり分析したりするのはあまり好きではないが、少しだけ言わせて貰うと、<煙草>は反抗の象徴であり、また矛盾や不平等を平気で許している社会の<毒>そのものを表している言葉だと思う。そこには彼女の、反抗しながらもそこに取り込まれていってしまう自分に対する自罰感のようなものが伺える。また<笛>は守るべき無垢なる心、彼女の場合<詩人の魂>と言っても良いと思うが、その暗喩のように読める。

               ☆

 今、アフェリを見ると本書の装丁が大学ノートを模したものになっていて驚いた。私が読んだのは新潮文庫の普通のそれだったが、高野さんはジュディと名づけて大学ノートに横書きで日記をつけていたらしく、これはそれを再現しようとしたものらしいが、この方が確かに臨場感がある。

それにしても日記文学を読むといつも思うのだが、発表するつもりがなく書かれた言葉は、何故、これほどまでに人の胸を打つのか。

ブログなんぞをやっていて反省することしきりである。

PS 全国の新成人のみなさん。おめでとうございます。

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