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ウェディング・ソング~二人の理由


二人が
二人であることの不思議さは
きっと
永遠に謎だ

何故 彼にとって彼女であるのか
何故 彼女にとって彼であるのか

答えはきっと
言葉の中には無い
<言い古されたあの言葉の中にさえ>

答えはきっと
世界中のどんな書物にも書かれていない
ファルコンの定理よりも難解で
林檎が木から落ちたくらいでは
導き出せる法則も無い

ただ触れ合う時
歓喜の中で互いの名を呼び合うとき
怒りに震え
打ちひしがれ
折れ曲がる背中にそっと置かれた
手のひらの中の温かさに

答えのヒントは
少しずつ隠されている

今 彼の心は
彼女の掌の形
彼女の身体は
彼の唇の彫刻


二人が
二人で生きていく人生は
謎の答えを
探す旅
であってはならない
ただ折に触れ見え隠れするヒントを
いちいち噛みしめ
その時の互いの姿を
驚きを持って
呆然と

見つめ続けること

 

 今日は私達夫婦の結婚記念日である。だからといって毎年この日に何か特別なイヴェントらしきことをしたことなど1度もなくて、それどころか二人とも忘れてしまっていることの方が多い。調べると結婚記念日というのは文字通り結婚式を挙げた日のことを言うのであるらしいが、私達の場合は一度式を中止している。式の準備をしている最中に妻が妊娠しているのが発覚し(だからできちゃった結婚ではない!)、式の五日前になって流産しかかって絶対安静となってしまった。なので二人とも一度もしたことはない結婚指輪には、その中止した式の日付が刻まれている。

 その後、無事長男が誕生し1年もした頃、私達自身はもうどうでも良いと思っていたが、周囲の熱烈な?アンコール?にお答えして式を挙げることになった。新郎新婦入場で私は大事な証拠のように長男を抱きかかえ、しかも最初に事の顛末を私が説明してから始まるという、今思い出してもこの上なく恥ずかしい式であった。

 だから本当の式を挙げた日を記念日ということにすると、息子誕生までの1年はなんなんだ?ということになるので、うちの場合は入籍した日ということにしている(別に真剣に話し合ったわけではないが、自然とそうなった)。その日の記憶は曖昧で、現在も住んでいるH市の日曜日も開いている窓口で名前を書き、その後、寿司を食べに行ったことしか覚えていない。

 それで17年である。生い立ちも価値観も全然違う他人同士が、一つ屋根の下にこれだけの年月を過ごすというのは冷静に考えるとやはり凄いことなのだろうな。

↑は何年も前、友人の結婚に際し贈った詩。

これまでにヒントの書かれたカードは何度も配られた。が、未だに答えには行き着きつかない。

でも今、彼女に言いたいのは“ありがとう”ということ。本当の“ありがとう”です。

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五訓


汝、風であるべし
限りなく自由で、硬い根雪を溶かし
まだ誰も見たことの無い果実の種を運ぶ
南からの
熱性の
風であるべし

汝、木であるべし
鳥、花、獣、虫たちを憩わす
太い幹と枝葉を持った
ジャングルの
動かない
木であるべし

 

汝、水であるべし
天から山へやがて海へと注ぎ
見知らぬ土地を一つに結んでいる
虹色の魚に満ちた
清い
水であるべし

汝、空であるべし
愛する人を亡くした人が
ふと見上げた時
あそこに帰っていったのならと
静に慰めを得る
夏の
夕焼け空になるべし

 

汝、ただただ人間であるべし
何も持たずに裸で生まれてきたのに
あんなにあんなに喜ばれている
古い写真の中の
素っ裸で
素朴な

 

汝、人間であるべしー

 

 もう、十年以上も前の話。4つ上の兄が社長に就任した際、弟と何か贈ろうということになった。弟は社長室に飾って見栄えのするような絵か何かを贈ったと記憶しているが、その頃の私は凄まじく貧しくて、何も送ることができず、まだ存命だった母に「あなたは詩を贈りなさい。」と言われて書いたのがこの詩。

 

 私はナナオ・サカキの『ラブレター』のような詩を書こうとして、失敗?してこうなった。今読むとなんだか偉そうで、こんな人間になれるはずも無いと思える詩だ。贈られた方は随分迷惑だったかもしれないな。ゴメンな、兄貴。

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20度目の歌舞伎~籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)

 歌舞伎座さよなら公演2月大歌舞伎は今年で23回忌となる第17代中村勘三郎の追善公演。昼の部には彼の最後の舞台となった『俊寛』を、午後の部にはこれも度々演じた『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』を配し、追善口上、及びその他ゆかりの演目が並ぶ趣向に。

Photo_5 昨夜見たのは『籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)』。この芝居は享保年間(1716~35)、江戸吉原で下野佐野の百姓次郎左衛門が兵庫屋八橋の不実を恨んで切り殺し、その他大勢の死傷者を出した吉原百人斬り事件を扱ったものとのこと。

 佐野次郎左衛門に勘三郎、下男治六に勘太郎、八橋に玉三郎、九重に魁春、七越に七之助、繁山栄之丞に仁左衛門、釣鐘の権八に彌十郎という豪華キャスト。

 この『籠釣瓶~』には歌舞伎を論ずる時しばし取り上げられる“八橋の笑い”というのがある。私は歌舞伎鑑賞を始めるに際し、評論家渡辺保氏の六世中村歌右衛門について書いた名著『女形の運命』という本を借りて読んだが、その中にもこの“八橋の笑い”というのは確か章立てて取り上げられていた。

近世芸術であるはずの歌舞伎もやがて近代の影響を受けざる得なくなり、その近代人の身体性がいかに歌舞伎に流入したのか。そして近代人としての歌右衛門の無意識が、芸を通してどのように歌舞伎を現代人が抱える問題をも表現しうる芸術と変えたのか・・・と、そんな風に読んだのだが、その表象として“八橋の笑い”が取り上げられていたと記憶する。で、私は歌右衛門のものでなくとも、いつかその“八橋の笑い”とやらを見てみたいと思っていた。

「見初の場」で吉原見物に来た田舎モノ丸出しの次郎左衛門と下男治六は花魁道中に遭遇するが、初めに七越が、次に九重の列が通り過ぎても、次郎左衛門はまだただの見物人にしか過ぎない。しかし、八橋の衝撃的なまでの美しさに出遭って彼は初めて何事かを決意する。

“八橋の笑い”とはこの時の笑いのこと。花道付け際において花魁八橋は誰にともなく妖艶に笑いかけるが、これはあばた顔の次郎左衛門個人に向けられた笑いであるのか、はたまた道中での女郎の、ただの愛嬌をふりまく笑いなのかは分からない。ただ、芝居の仕掛けとしてこれはとても重要な意味があると思った。

 この時、見物人として舞台の上にいるのは次郎左衛門と下男治六だけだが、本当の吉原の花魁道中というのは群衆の中をねり歩いていったものだ。だから、舞台に2人しかいないというのは芝居のウソで、形としては群集の中の二人にスポットが当たっている状態だと思われる。だから八橋が誰に対して笑ったかというと、大勢の見物人、群集に向かって笑ったのだと思う。

 何故笑ったのか。それを考えるには花魁というのがどういう存在かをちょっと考える必要があって、彼女達は自由を奪われた哀れな身でありながら大衆の夢でもあると言う矛盾した存在。吉原を「中」、それ以外の世界を「外」とすると、吉原は現実には彼女達の牢でありながら、庶民にとって夢の場所でもあるという、ある意味虚構がまかり通っている所。

 八橋は群集に向かって自分のプライドを示したんじゃないかと思う。金で身体を売る哀れな存在であるにも拘らず、大衆の夢でもあるという、吉原NO1花魁の。そして江戸の2大悪所は「吉原」と「芝居小屋」と言うらしいが、この笑いはこの芝居を見ている私達を虚構=芝居へと誘う笑いでもあって、言わば二重構造になっている。

「吉原」=「夢の世界」で評判の上客となった次郎左衛門だが、彼にはどうしても「夢の世界」に同化できない部分があり、それが顔のあばただ。ここが120年近く前の本であるというのに実に上手いと思うところだが、夢の中にいても彼は現実を尻尾のように引きずっていて、やがてそこから悲劇が小さな流水からダムが決壊するように訪れる。

             ☆

 昨日、“八橋の笑い”をしたのは言わずもがな玉三郎。昨日の玉三郎は本当に美しくて、例によってまた登場だけで次元が一段上がると思われるほどだった。そして「中=夢」、「外=現実」に引き裂かれているのは次郎左衛門だけではなく実はこの八橋自身もそうなのだと、細かい仕草の隅々にまでいきとどいた“気”でもって表現していた。

 前述の六世歌右衛門は“八橋は哀れな女だとご見物に思わせなければならない”と言っていたそうだが、その点では正統派の八橋だった。そして彼女の美しさに騒然となる観客の驚きが次郎左衛門の驚きでもあると言う、そこもまた二重構造だった。

 で、当代勘三郎の次郎左衛門だが、初め田舎の絹商人から吉原で評判の上客となり、その後、縁切りされ復讐の鬼と化していく様を上手く演じていた。特に縁切りの場では、八橋の言葉の一言一言で、初め徐々に、やがて大崩壊していく様は異様な迫力で、最後は宇宙の真ん中にぽつんと取り残されているような孤独感を表情のみで表していた。

                           ☆

 現在の歌舞伎座が終了するまで昨日の段階ではあと80日。3月、4月の演目も発表され、見たい芝居が目白押しだが、今月はもう一つ、やはりどうしても『俊寛』が見たいんだ・・・・な。

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12ドルのローストビーフ

 前回に続きまたサリンジャーネタ。サリンジャーというと1965年に筆を折って以来、隠遁し、その私生活は全くの謎に包まれたままということになっているが、近所の人たちの証言よって晩年の暮らしぶりが少しずつ明らかになりつつあるらしい。

それによると印象は「物静かな田舎のおじさん」。あいさつにも気軽に応じ、選挙や町民会議にも参加し、買い物はほとんど町の雑貨屋で済ます。近所の教会の夕食会を気に入り、毎週土曜日にセーターとコールテンのズボンという姿でやって来て、必ず12ドルのロースト・ビーフを食べていたという。自宅近くの子供達と学校の話をして、自宅の庭でソリをしたいという申し出にも快く応じていたとか。

彼が暮らしたニューハンプシャー州コーニッシュでは町ぐるみで彼の私生活を口外しないことは暗黙の了解となっていて、尋ねてくる記者や旅行者に町の人たちはわざと森の中を教えたりしていたらしい。

どんな富や名声より無名性の日常のかけがえなさ。サリンジャーのこの話は私にそんなことを教えてくれる。

それにしてもコーニッシュの人たち、素敵だな。いつか映画になりそうな話。

 

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