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21度目の歌舞伎~『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』

Photo_4   1月の『勧進帳』に続き、先月の『俊寛』も余りの人の多さゆえ、結局、見れなかった。

 いよいよ本当にサヨナラが近くなり歌舞伎座は毎日凄いことになっていて、今日、歌舞伎座の幕見を誘導をしている松竹の職員の方が教えてくれたのだが、夕方6時から始まる第三部を見るのに今は早朝から並んでいる人がいるほどとか。この調子で行くと来月4月、本当の最期の公演で三部の『助六』を見ようと目論んでいる私としては今から非常に不安だ。

で、本日は色々と考えて、この歌舞伎座さよなら公演『御名残三月大歌舞伎』は第一部の中から『菅原伝授手習い鑑~加茂堤』と『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』を見ることにした。

 特に見たかったのは『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』。去年NHKでやっていた番組『極付歌舞伎謎解(きわめつけかぶきのなぞとき)』で、舞台装置の進化と併せこの演目について紹介がされていて、1度見て見たいと思っていた。

全体の物語は非常に長く、真柴久吉(秀吉)の朝鮮出兵の後日談と言ったところ。

 久吉の軍に殺された明の宋蘇卿(そうそけい)には3人の子供がいて、その子供達が日本においてリベンジを果たそうとする。そして、その中の一人、日本人女性との間にできた子供が石川五右衛門という設定。五右衛門の養父は明智光秀ということにもなっていて、つまり久吉(秀吉)は五右衛門にとって二重に<仇>になっている。

 この『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』、通称「山門」は、五右衛門が自分が宋蘇卿の子供だと知り、運命の敵、久吉と対面する場面のことで、さっき、とても長い物語と書いたが、この場面だけだと時間にして僅か15分たらず、今まで見た演目の中では最短のもの。

今日の舞台、石川五右衛門に吉右衛門、久吉の臣・左忠太に歌昇、右忠太に歌六、真柴久吉に菊五郎。

 歌舞伎もこう毎月毎月見ていると、段々と他の演劇との見るべき差というものが分かってきたような気がしてきて、ストーリーの面白さ、演技の上手い下手というのも大事だが、歌舞伎には独自の様式美というものがある。

 この1月の“車引き”をテレビで見た時も思ったが、歌舞伎は絵として楽しむ、というのもとても大事だ。一つの絵に役者がどの位ハマっているかというのも見所でもあり、そして、役者の力量によってその絵の魅力が何倍にも増幅され、その振れ幅を楽しむ、と、偉そうに言えばそんな感じか。

 様式美、彩色美と言えばこの『楼門五三桐(さんもんごさんのきり)』は正にそれを楽しむ芝居。浅黄幕が落ちるとその後ろには満開の桜の中に豪華な南禅寺の山門。金襴地のどてら姿の五右衛門がそこにいて、例の「絶景かな、絶景かな・・・。」のセリフ。飛んできた鷹から宋蘇卿の遺書を受け取り、五右衛門が自らの素性を知る、そんな場面。

 その後、見所の一つでもある山門がせり上がると、そこにいるのは仇である真柴久吉(↑写真は演劇界から転載)。こちらは五右衛門とは対照的な巡礼姿で、「石川や浜の真砂の尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」と、これも有名なセリフ。

 上の様式美云々の話に照らせば、吉衛門の五右衛門は絵を何倍にも増幅させるに十分なそれだった。と言うか、私のとっての吉衛門の魅力というのはつまるところそういう事で、彼を見る喜びがどのへんにあるのか、今日やっと分かったような気がした。そして菊五郎の久吉は清涼感がある清清しい印象で、吉衛門の五右衛門とコントラストになっていてこちらも絵的にとても良かった。

               ☆

 今日、幕見の列に並んでいると隣の人が「『加茂堤』が700円なら、『山門』は短いから300円くらいかしら?」と話していたが、実際は800円だった。ま、値段で比べるのも下衆な話だが、私の満足度は短いながらこの『山門』の方が、あった。

『加茂堤』はこちらも長い『菅原伝授~』の一場面。最初の場面は現在ではほとんど演じられることはないというから、今ではこれが最初と言っても良いものらしく、今後のために見ておいた。

 その話はまたいつか。

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ウォッカの引退

 ウォッカ電撃引退。“バブルの時代と一緒に華やかに舞ったのがオグリキャップなら、ディープインパクトは低迷する景気を吹き飛ばすようなスターだった。ウオッカは、どちらでもない。期待を何度も裏切りながら大舞台では劇的な演技を見せる、最高の女優だった。”と、デイリースポーツ紙。

 今朝、YouTubeで4日に行なわれたドバイ・マクトゥームチャレンジ・ラウンドⅢの映像を見ていて、そのコメント欄でウォッカの引退を知った。「なぬ!」と思って雨の中、コンビニまで行くと、スポーツ紙各紙一面に“ウォッカ引退”の文字。去年末のジャパン・カップの後と同様、またも鼻出血を発症したとか。3/27に予定していた世界最高峰レース、ドバイ・W・Cへの出場予定を回避し、そのまま引退ということになった。

 かつて大学の講師をしていたフリードリヒ・ヘーゲルはナポレオンがイエナの町を通り過ぎるのを見て、友人に「世界精神が馬に乗って通るのを見た」と手紙に書いたと言う。

この“世界精神”を“時代精神”と言い変え、上のデイリー・スポーツ紙的な見方をした時、ウォッカが走った今とはどんな時代なのだろうか、と私はつい考える。

思うに今は“闘う”という行為が女性のものになった時代だと思う。勿論、闘っている男も沢山いるが、バンクーバー・オリンピックを例に出すまでも無く、一つの時代を表象するような戦いを演じるのはいつの頃からか女性の役目になってしまった。

 それは周りで見ている我々が闘いの中に美しさや儚さを無意識にも求めるようになったからで、その中には女性特有の精神の不安定さや不可解さも含まれる。“ナリタブライアンの持っていた圧倒的な力強さとも違う。ディープインパクトが見せた完璧な強さとも違う。激しく燃えたかと思うと、揺れて消えそうにもなる。ろうそくの灯りのように強さともろさが同居する、そんな不安定さもウォッカの独特の魅力だったかもしれない”と、今朝の新聞にもあった。

 私はこの歴史的な名牝を2度見た。去年の秋、東京競馬場でのことだが、最前列にいる私のすぐ近くに来たウォッカは拍子抜けするほど可愛い顔をしたお嬢さんだったが、レースで目の前を駆け抜ける様はまさしくヘーゲルの前を行くナポレオンのそれであった。

 今、ウォッカの過去のレースをYouTubeで見るとそれぞれどれも凄い。どれもこれもいちいち劇的だが、やはり2008年秋の天皇賞、ライバル、ダイワスカーレットとの激闘は何度見ても鳥肌がたつ。これは今月の雑誌『優駿』の特集“大接戦のGⅠベスト100”の第1位にも選ばれていて、競馬離れが叫ばれる中、このレースの時は前年比121・9パーセントの12万1961人が府中に詰め掛けこの闘いを見たと言う。正に時代を切り取る歴史的な一戦であった。

 

 

 今日、テレビで松本ヒロシ氏が「ウォッカにはありがとう、と言いたい。自分が生きている間、もう女の子馬がダービーを制するところなど二度と見れるはずは無いから。」と言っていた。

自分が競馬を始めた時に、ウォッカがいたことを私も神様に感謝すべきなのだろうな。

 今後、彼女は予定通りアイルランドにお嫁入り。

ありがとう。お疲れ様でした。いい子を産んでください。

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