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1Q84 Book3読了。

1Q84 BOOK 3 Book 1Q84 BOOK 3

著者:村上春樹
販売元:新潮社
発売日:2010/04/16
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 先日、ポールマッカートニーの『1985』が近未来SFのサウンドトラックのように聞こえ、実はシンプルなラブソングだった・・・というようなことを書いたと思うが、きしくも今朝読了した村上春樹の『1Q84 book3』も正に同様な印象を持った。これは恋愛小説である。しかし、シンプルな恋愛小説ではない。

 1984ならぬ“1Q84”とは何か。それはシステムの暴力が細分化し、常態化し、人の意識の奥深くまでを脅かしている世界のことだ。それはつまり“近過去”というスタイルを取りながら、実は私達が生きているこの現在を表していると言っても良い。

 主人公の二人青豆と天吾はシステムの暴力による絵に描いたような犠牲者である。青豆は原理主義的宗教団体の信者である両親に育てられ、子供の頃、クラスメイトには気味悪がられ、無視され、豊かな子供時代というものを予め失われて育った女性。一方の天吾はNHKの受信料の徴収を天職とする父親に付き従い、休みの度に町中を連れまわされるという子供時代を送った青年。

 NHKとは言わずもがな「国家」の、受信料とは「税」のメタファーであり、こう考えるとこの小説は宗教というシステムに深く傷つけられた少女と国家というシステムに翻弄された少年のこの世界からの脱出譚とも読める。

 勿論、今回も物語は氏特有の不可解さや謎に満ちている。二つの月が意味するもの。空気さなぎとは?リトル・ピープルとは?処女懐妊の意味や安達クミとは誰なのか?マザとドウタとは?などなど・・・。今も雑誌やネット上で最終的に明かされなかったことへの謎解きのようなことが盛んに囁かれ、またそれが続編の期待と可能性を予感させるものとして語られているが、私はその辺のことには余り興味はない。それにこの作品はこのBook3を持って完結、で十分良いと思う。

                 ☆   

 村上春樹がこの物語で伝えようとしたものは何か。それを考えながら上のように「宗教」「国家」をシステムという言葉で一括りにしてしまう時、私がどうしても思い出してしまうのが氏のイスラエル文学賞受賞時の例の「壁と卵」のスピーチである。その中にこのような言葉がある。

「私たちは、国籍、人種を超越した人間であり、個々の存在なのです。「システム」と言われる堅固な壁に直面している壊れやすい卵なのです。どこからみても、勝ち目はみえてきません。壁はあまりに高く、強固で、冷たい存在です。もし、私たちに勝利への希望がみえることがあるとしたら、私たち自身や他者の独自性やかけがえのなさを、さらに魂を互いに交わらせることで得ることのできる温かみを強く信じることから生じるものでなければならないでしょう」(太字 筆者)。

 システムの暴力が支配的な世界を生き延びるために氏が最後に用意したのは、愛し合う一対の身体と新たな生命、“小さなもの”をどんなことをしても守り抜いていこうとする強い意思である。

 愛し合う身体=生きている身体であり、だから、テロリスト青豆は死ななかった。どんな世界にあっても生きてさえいれば希望はある。喜びを感じる可能性はある。生きてさえいれば。私には氏がそのような歌を歌っているように読んだ。

 ラスト、1Q84的世界から抜け出した主人公達がいる新たな場所がどのようなところなのかは分からない。1Q84でのように上空に月が二つ見えるということはもうないものの、風景が一点だけ変っていて、その不穏な気配はそのままこの物語の余韻であり、また続編への可能性を示唆するようでもある。が、その不穏さは私達が読後、きりも無く日常の場で引き受けなければならない種類のものではないだろうか。

 少年と少女は手を取り合って森を抜けていく。(本書573ページより抜粋)

 複雑で様々なテーマが盛り込まれた作品でありながら、氏の真骨頂である“ボーイ・ミーツ・ガール”な物語でもある。後半、ラブストーリー的な展開になっていく部分が小説の完成度として不協和音が生じているような部分もあるが、これはあえてそうしたという感が強い。完成度を考えたらこの物語は永遠に終わらない。あたかもこの世から暴力が決して無くならないように。それはメビウスの輪のように様々に反転しながらBook4、Book5・・・と続いていってしまうのではないか。しかし、それでは過去にこの国で起きた事件のグロテスクなレポートと同じになってしまう。

 今後、世界中で翻訳・刊行されるであろう本書が、各々の国でどのように読まれるのか今から興味深い。

   

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コメント

山ちゃんです。まだ読んでません。私は病気で活字に対する集中力が著しく衰え、長編小説が読みづらい状況です。

以前T先生がこう述べていました。
「村上春樹はこれまで社会性がないと批判されてきましたが、オウム事件以来、大江健三郎と並ぶ社会派になったと論じる批評家も出てきたようですが、彼の物語は、目下のところはという限定つきですが、主人公が自分を閉じ込める壁(あるいは井戸)からどうすり抜けるかという物語であって、壁が何か、壁とどう戦うかということについては多くを語らない、極めてポストモダンな物語であり、大江健三郎との違いはまだ歴然としていると思います。」

この指摘について、今作品はついてはどうでしょうか。。。

投稿: 山ちゃん | 2010年4月29日 (木) 19時49分

山ちゃん、コメントありがとう。僕はハルキストだし、大江さんに関しては昔、自宅まで押しかけたほどの大ファンでもあるのだけど、両者を比較して考えたことはあまりない。龍の方ならあるけどネ。

 ただ、“壁とどう戦うかということについては多くを語らない、極めてポストモダンな物語であり”とあるけど、逆に大江さんは作品の中で戦い方について語っているということだろうか?僕はそうは思わないけどな。今度、先生に会ったら聞いてみようと思います。

 昨日、『1Q84』を読み終わったのは早朝で、その後、何気にテレビを付けると亀山郁夫氏(『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』で新訳ブームを興したロシア文学者)のインタヴューをやっていてドストエフスキーについて語っていた。それでインタヴュアーが最後にドストエフスキー文学とは何か?と尋ねた時の彼の答えが『1Q84』読後直後の僕の感想と非常に似ていたのでちょっとビックリしました。それはエントリー本文の“生きてさえいれば・・云々”ってところなんだけど、ホント同じでした。

『1Q84』、もし読むことがあったら感想を聞かせてください。
 

 

投稿: ナヴィ村 | 2010年4月30日 (金) 04時19分

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