映画『バベットの晩餐会』~美味しいはアート
今夜の夕食。鱒の塩焼きの大根おろし添え、マエタケの天ぷら、きんぴらごぼうとベニ生姜入りさつま揚げのミックス、及びタマネギとワカメの味噌汁、プラスごはん&ビール。
こうメニューだけ書き記すことは簡単にできるのだが、だいたいにおいて自分はは食べ物に関する文章を書くことは大の苦手。それを証拠にこのブログの食べ物に関するカテゴリーを紐解いても、納豆焼きやら親子丼やらナポリタンスパゲッティーやらの思い出話が語られているだけで、どうにも食指を動かすようなものはない。本当はレストラン・ガイドのようなものでも書ければ、このブログももっと多くの人に読んで貰えると思うのだが。
これは食道楽で、あの時代の男にしては珍しく自らも厨房に立って包丁を振るうのが常だった亡き父の影響がある。父は自身は食通であるのに子供の私が食べ物に関するウンチクを語るのは決して許さなかった。全てにおいて「男は出されたものを黙ってたべろ」式で、それで、散々美味しいものを食べた後でも、いざ言葉にしようとすると禁忌が働き、私は腕が“縮んで”しまうのだ。
食べ物に関する文章で私が一番好きなのはやはりムッシュ・イケナミ、池波正太郎センセのそれである。センセの文章はなにも過剰な美辞麗句やワイン・ソムリエが味を表現する時のようなけったいな物言いは一切ない。極シンプルに、何はこうしたら美味い、何はこうしたら不味い、というようなことがほぼ独断で語られているだけだ。が、ただ、それだけなのに口中に料理そのものの味が広がっていくようで、つい読まずにいれなくなるようなところがある。
何故だろう?それは一にも二にも説得力と言うしかないのだが、戦中の食糧難を経験したからなのだろうか、そこには良い意味での執着心のようなものがあって、一食一食を常に大切な出会いとして食事をしている人でなければ、結局、こういう文章は書けない。執着心は愛情と言い換えても良い。
と、ここまで書いて私はそもそも“美味しい”とは何か?という根源的な問いに行き着く。五大栄養素とカロリーさえ足りていれば本来的に人間は死なないのに、人は古来から“美味しい”を求める。野生動物、例えばライオンが獲物をしとめて喰らいつく時、果たして美味い、不味いを吟味しているのだろうか。それ以前に空腹が満たされていく・・・ただそれだけを感じているだけのように思うが。
☆
昨日、見た映画『バベットの晩餐会』は人間にとって“美味しい”とは何か?ということを見事に表現した映画だった。
厳しい戒律を守り、美しい姉妹と共に質祖に暮らす漁村の人々。ある日、宗派の開祖であった姉妹の父の生誕百年の宴に、姉妹の家で召使いとして長年働く女が、フランス料理による晩餐会の企画を申し出る。姉妹は本当はいつも通りの食事とコーヒーだけのシンプルな集まりを考えていたのだが・・・・。
詩=ポエムの語源は「ものをつくる」ということらしい。以前、故田村隆一氏のエッセイで読んだ。「だから毎日台所で料理をつくるご婦人方は皆、詩人なのだ。」と戦後最大の詩人は言っておられた。が、それは例えとか単なるウィットの効いた言葉ではなく、本当のことだとこの映画を見て思った。
“美味しい”とはアートだ。だからこの映画は一人の天才のアートに日常のレベルで出遭ってしまった市井の人々を描いた映画であると言っても良い。そして真のアートとは目を開かせてくれるものでもあり、危険なものでもある、ということ。この辺りのことは原作にはもっと如実に表現されていて映画と比べると興味深い。
料理=アートと考えると、食欲の・・芸術の・・と言われる秋に見るのに、これはピッタリの映画。原作はイサク・ディーネセン。あの『アフリカの日々』を書いた人だ。
そして、この映画、ネットなどで見るとDVD化されていないような書かれ方が一部にはされているが・・・ホントだろうか?こんな名作なのに。昨日、試しにレンタル屋を数件回ってみたが案の定、無かった。見つけた人は必見です。そして、実際のところを知っている人、どうか教えて下さい。
で、最後に教訓。女性の皆さん、世の男性はいつだって偉大なアーチストがそばにいてくれることを望んでいるんですよ。
“美味しい生活”って、そりゃーもう、かけがえないもんですから。
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