村上龍の小説を読んで読後こんなに深い余韻に浸るのは久しぶり。私は氏の膨大な著作をデヴュー作の『限りなく透明に近いブルー』からほぼ順番に ある時まで律儀に読み続けていたが、いつの頃からか止めてしまった。
80年代の後半から90年代、氏はもの凄い勢いで小説を量産していて、それは1人の作家が短期間でこんなに沢山の小説を書き上げることが可能なのか?と思うほど程の、正に驚くべき状況であった。
そして小説の種類も『イビザ』・『エクスタシー』・『タナトス』のような倒錯した性を延々と独白体で語るものから『五分後の世界』・『ヒュウガウィル』のような構築系のシュミレーションもの、『オーデション』や『ピアッシング』『イン・ザ・ミソスープ』のようなサイコホラーまでと実に様々で、つまり一言で言うと私は一読者としてこの作家の想像力と圧倒的な筆力についていけなくなったのである。
ただ一つだけ言い訳をさせてもらえば、これはある評論で吉本隆明氏も言っていたことだが、氏の小説は読んでいる時は無類に面白く、読むのを止められない程になるが、読後しばらくすると何が書いてあったか思い出せないというところがあって、ある時から私にとってそれは喉越しの良いコーラ、あるいは効かないドラッグのようになってしまった。
何故か?私の勝手な解釈だが、それは多分、氏が映像作家でもあるところが原因なのではないかと思う。デヴュー作の第1行目から氏の文章は映像的で「この人、本当は映画を撮りたいのに色々あって撮れないから、それで小説を書いてるんだろう」という印象が当初からあった。その後、周知のように氏は映画も撮るのだが、それでだろうか、私は一頃の村上龍の小説を、映画かアニメ・コミックの原作なら良いのに、と思うようになってしまったのだ。
例えば『五分後の世界』だが、私はこの小説を氏の最高のものの一つであると思う反面、大友克洋等が漫画・アニメ化してくれば良いのに、と当時思ったりした。延々と描写される戦闘シーンは確かに凄いが、アニメやCG映像等を見慣れた昨今にあって、別に小説じゃなくても・・・という思いもあった。続編ともいえる『ヒュウガウィルス』もしかり。その読後感は意外にも強くて、前作の『半島を出よ』は上の二作と同様の映像的なミリタリーものと判断して読まなかった。
それともう一つ。そんなジャンルがあるのかどうか分からないが、私はシュミレート小説が嫌いだ。“もし、OOがXXだったら”みたいなもの。ある意味『五分後の世界』や『半島を出よ』もそうだし『希望の国のエクソダス』というのもあったが、それらはどんな力作にせよ時々の時事的な事象と結びつきすぎていて、それこそ一過性のものという感じが否めない。
私は村上文学のファンである。だから、できれば小説という容器でしかなし得ないものをもう一度読みたいと熱望していた。
☆
最新作の『歌うクジラ』はその牧歌的な題名からニューエイジでエコロジカルな海洋冒険ものなどと思って手にしたら痛い目に合う。私はそんな筈はないと勿論分かっていたし、上記したような理由からしばらく氏の著作とは遠ざかっていたのだが、上巻の帯びの“22世紀の「オィディプス王」「神曲」「夜の果ての旅」を書きたかった”という言葉につられてつい買ってしまった。「夜の果ての旅」、セリーヌか・・・・切ない。
内容は2022年のクリスマス・イブにハワイの海底で グレゴリオ聖歌を正確に歌うクジラが発見される。そしてその1400年も生きているとされるクジラのDNAから不老不死の新薬SW(Singing Wheels)ウィルスが開発されるが、格差社会が徹底した未来の日本では上層階級の人々しかその恩恵を得られない。そして最下層民である少年アキラは父からSWウィルスの秘密を巡る重要なデータをある人物に渡すよう頼まれ、最下層民を隔離するべく設定された「新出島」から脱出することを決意する・・・・・・・。
読み始めてすぐ、これもある種のシュミレーション小説なのでは?と思ったがそれは間違いだった。“もし、このまま格差社会が進んだら?”のような。
そして氏自身によって想像された未来社会像と延々と続く戦闘と暴力、またグロティクスな性描写だが、今回の氏の想像力は最高度に爆発していて、この小説はどんな形にせよ映像化は不可能であると思った。もし、万が一できたとしても上映はできないだろう。上記したような80~90年代の作風は突き詰められて、もう文学でしか表現し得ない地点にまで氏は到達してしまったようだ。私の危惧などあざ笑い、逆手に取ったような氏のこの筆力にはただただ驚く。
この小説について新聞のインタヴューで氏自身は「移動」ということの重要性を挙げていた。移動し続けること。移動しなければ人に出会えない、人と出会うということそのもが生きることなのだと。
そして私が読後、思ったのはこの小説で“歌われて”いる歌があの記念碑的傑作『コインロッカー・ベイビーズ』で最後に主人公の1人であるハシが歌ったものと同じ歌だという事だ。
コインロッカーに遺棄された少年と格差社会の最下層に生きる少年。村上龍という作家は結局こういう人で、社会の中で声を与えられていない人々に声を与え、地獄巡りのような現実をなんとか突破させた後、最後に生命の歌を歌わせる。それは風俗嬢たちを描いた『トパーズ』でも同じだ。
☆
さて、この小説はiPad版もあり、話題になっているが、こちらの方はまだ私は見ていない。TVで見たところでは映像や音楽等のコンテツが盛り込まれているようで、面白そうである。そして様々な分野に果敢に挑戦している氏がいち早くこの分野に参入したというのは頷けるところ。
そう言えば下巻の帯にはこうある。“未来はもう、始まっている”と。まさしく。
最近のコメント