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東北沖大地震~都心で被災したら。 

Photo_2 現在もまだ余震がある地域もあり、緊急事態の中にあるので何を書くのもはばかられるような気持ちもあるが、その時、自分がどのような状況だったか、またその体験から何を考えたかを記しておくのは今後のために有益かと思い書いておく。

まず私は3/11のその時、虎ノ門にある現場事務所にいた。遺跡発掘作業の作業員のための休憩所兼作業所兼事務所。工事現場などに良く見られる3階建てプレハブの建物だが、その3階で数人とPC作業をしていた。

 そして揺れの第1波が来た時、誰もがそうだと思うが、いつもの普通の地震だと思った。しかし、揺れの時間は長く、次第に強くなり・・・それで責任者の1人として正直に自分が考えた(感じた)ことは、この建物が倒壊するとしたらこの3階のフロアにいるのが安全か、それとも、この揺れの中でも、とにかく皆に階段を駆け下りて外に出ろ!と指示した方が良いのかという事。実際、少しおさまったらそうしたのだが、揺れの最中でそれを瞬時に判断し、行動に出るのは(移させるのは)事実上無理であった。

 そして、外。建物の外はこのエリアには珍しく、やや広い空間があり、皆でそこにいたのだが、周辺の高層ビルがどれもゆらゆらとしていて驚いた。そのうち周辺のビジネスマン達がぞろぞろと集まってきて、騒然としていたが、その次に私が考えたのは私が抱える作業員達が今日、無事に帰宅できるのか?ということ。揺れが来て30分くらいして私は作業員の一人に最寄駅に様子を見に行ってもらったが、周辺の駅はすでに運転を見合わせていた。

 安否確認については携帯は役に立たなかった。テレビ、ネットは繋がっていたが有用な情報はあまり得られなかった。その日は私の代わりに大量の荷物を虎ノ門から北綾瀬までトラックで運んでくれている人がいて、彼の安否を思うと気が気ではなかった。

 で、その後、多くの人、特に子供を持つ女性達が、もう帰っても良いか?と聞いてきた。交通機関は麻痺していそうだが、皆、徒歩でも帰る、と言っている。天気は曇ってきてやや小雨も感じられて、私は「安否の確認さえ出来れば、かえってこの場に留まっていた方が安全だから・・・」と言ったが、安否の確認ができないのだからしょうがない。皆、虎ノ門から板橋区や杉並区や国立や府中にまで・・と歩き始めた。

 その後は帰宅難民化した30名近い人々と現場に泊まることにしたのだが、次に考えたことは皆の夕食、食料のこと。幸いガス、水道、トイレ等のライフラインは問題ないし、留まると一度決心してしまえばここほど安全な場所はないが、コンビニに行くとどの店も全て食料は売り切れていた。が、営業している飲食店が多数あり、順番で食べに行けばいいのだった。心配は杞憂に終わった。

 そして夜は皆でテレビを見、心配していたトラックの彼が戻ってくると、私は安心して酒盛りという事にしてしまった。

 さて、この程度の経験だが、その間、見たこと、考えたこと等を以下箇条書きにしておく。

 部屋の棚などにはちゃんと耐震措置をしておくこと。実際、私のいた部屋は3方を棚、ロッカーその他に囲まれており、揺れている間、視認したが、あれは本当に有益だった。私は買って来いと言われても、ケチって?算木で作った手製のものを各所に施させていたのだが、しっかり役にたっていた。もし、棚がバタバタと倒れていたら当事者達のパニック感はもっと大きかったと思う。

2 大事な人との連絡方法としてお互いのメルアドを常に確認しておくこと。意外と携帯の番号は知っていてもメルアドを知らないということは多い。安否さえ確認できれば不要な行動に出る必要も無くなり、大変な思いをしないでも済む。メールも繋がりにくかったが、TELよりは良かった。使えない人(高齢者)などにも、日頃から使えるよう訓練させておくのは大事だと思った。

3 食料・水の備蓄。今回はさほど深刻ではなかったが、コンビニ、スーパー等の食料(カップ・ラーメン、パンなど)はあっという間に売り切れた。地震後数時間してとれた日野市の妻・息子の話では多摩地域の一部で供給のための電気系統の故障から断水になり、近くの公園の湧水を二人で汲みに行ったとのこと。

4 しっかりした靴を履いていること。私は歩かなかったが、歩いて帰ることを想定すると長時間、長距離になるのでハイヒールやつっかけ程度の履きものではダメだろう。綾瀬から戻ってきた彼の話では、途中、建物のガラスが割れ舗道に散乱している例を多数、見かけたとのこと。

5 歩いて帰宅する時のため携帯用のラジオを用意しておくこと。テレビでもラジオでも被災状況と同時に、帰宅難民のためにどの公共施設が解放されたか、アナウンスしていた。ラジオを持っていると力尽き、また怪我に見舞われた際、今いる地点からの最寄の施設に行くことができる。

6 テレビ等で交通機関再開のニュースを聞いてもすぐに動かないこと。実際、深夜(早朝?)某地下鉄の再開のニュースがあったが、人が殺到して、すぐ見合わせになっていた。そのような状況下では二次災害の方が恐い。今、いる場所がある程度の安全が確保されているなら、留まっている方が良い。

7 歩いて帰宅した人達の話を良く聞く。 これはシンプルな事だが重要な情報だ。被災直後、歩いて帰る、と申し出た人達が多数出たが、徒歩という手段で何処まで何時間かかるかというのは推測のみで誰も分からなかった。そして、その時の人々の様子がどうだったのか。ちなみに、私の聞いた話によると、夕方4時半ごろ府中に帰るため虎ノ門を車で出発したA君と、歩いて出発したB君の到着がほぼ同じで深夜1時だったとのこと。

8 ネット、Twitterなどにデマを流さないこと。これは今後の方が大事なことだが、このような緊急時にデマを流すのは犯罪である。現在、福島原発で大変なことが起きていて、政府の発表その他に怒り、苛立ちを覚えるのは分からないではないが、中途半端な知識や推測で不用意に不安を煽るような発言を流すのは控えること。現在、最悪の事態を回避しようと実際にその作業にあたっている人々がいて、それは宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』のような仕事である。ローリング・ストーンズの『地の塩』ではないが、今は彼らの任務について考えよう。

9 原発を止めること。これはもう議論の余地は無い。もし、この危機を乗り越えることができたら、私達は真剣にその運動を起こさなければならない。私が学生の頃、学生運動というのはもう無かったが「反原発運動」があった。随分、色んなことをしたが、結局、今まで止められなかったのだから、誰も偉そうなことは言えない。特に福島原発の電力は東京に供給されている。皆、今度こそ真剣に。

以上のようなことだが、感心したこともあって、それは今のところ略奪や暴力沙汰など、混乱に乗じたそのような事件が起きたというニュースが無いことだ。日本人の美徳ということか。ただ、阪神・淡路大震災の時は、明るみに出ていないが一人暮らしの老人や女性を狙って、電気・ガス・水道などのチェックと装って、強盗・強姦の類が少なからずあったと聞いているので、そうした注意も必要だと思う。

 ネット、twitterに関して言えばクレバーに使えば十分ポジティブな力も発揮できる。このブログでも以前、何処かに書いたが、ブログというのはそもそもアメリカの9.11の時に安否確認の方法として巷に広がったメディアなのである。

 連絡の取れない友よ。もし、無事ならコメントを。もしくはTwitterを。

PS  親戚、友人、恩師からいわきに在住の弟についての問い合わせが多くありましたが、携帯メール、twitterで呼びかけたら、彼のtwitterにいくつかのツィートが寄せられていてやや状況が分かりました。電気は大丈夫だが、水は断水中とのこと。常磐道は全面通行止めでガソリンも各店売り切れとのこと。hopi09です。見てください。

PSのPS 何故かTwitterの返信とかリツィートができなくなった。弟へ。もし、相互に連絡を取り合う必要を感じたら、このブログのコメント欄へ。

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