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映画『ブラック・スワン』・・・・コワい。

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 こういうのを何と言うのだろう。サイコ・スリラーとか言うのだろうか?現実と妄想の境界が曖昧で、最初から最後まで画面から眼を逸らすことができないシーンの連続。 

 ナタリー・ポートマンの素晴らしいバレエのシーンもさることながら、プレッシャーにより彼女演じるニナの精神が徐々に崩壊していく過程がリアルで恐かった。

 指のささくれをむしろうとしてそれが千切れず、思った以上に皮膚が剥がれ出血するシーンや、母親に足の指の爪を切ってもらっていて深爪してしまうところなど、個人的にはどんなバイオレンスシーンよりもこういうのが駄目。超コワい。

 それと鏡のシーン。確かにダンサーの日常は我々のそれよりも鏡に取り囲まれている環境が多いと思うが、鏡に映る自分は正確には真実の自分ではなく、単に自分が自分として許容しうる姿である。で、それが少しずつ狂ってくる。純心で貞淑な白鳥から邪悪で欲望に満ちた黒鳥への変容を強いられる主人公ニナの心理的葛藤を描くのに、この鏡が暴力的なまでに効果を上げていて、これもコワかった。

 それとセクシャルな誘惑や自分の中のそうした欲望に強引に対峙させられることで、女性がここまで悪夢的な世界に落ちてしまうものかと知って、その描写も・・コワかった。

 コワい、コワい、コワい。しかし、コワいもの見たさの極地とでも言うべき状態になって、翻ってとても面白かった。そして疲れた。人によって好き嫌いはハッキリ分かれると思うが、どう感じるにせよ新しい映画体験であることには間違いない。そうか、ダーレン・アフロノスキー監督、こんなのもアリなのか。

 それにしてもバレエってダークでディープで呪術的だ。特にこの『白鳥のみずうみ』というお話は。そして、それを一身に体現したナタリー・ポートマンが奇跡的に凄い。拍手。またチャイコフ・スキーの原曲を素材にした音楽も素晴らしい。

 また本筋から離れたところで、この映画でウィノナ・ライダーを久しぶりに見たが、物語と映画界での彼女の現在の立ち位置がリンクしているように見えて、こちらも・・・・・コワかった(笑)。

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新装版『コインロッカー・ベイビーズ』・金原ひとみの解説

Photo この予定の無い連休中は、基本的には本を読み、後は都内や家の近所を一人でブラブラとしている。歩いて疲れると喫茶店に入りコーヒーを飲むか、書店に立ち寄って気ままに本を手にとって眺めたりしているが、それで結構充実した気分でいるのだから自分のこととは言え、随分安上がりにできてるなあ、と思う。

 ↑は昨日たまたま入った書店で手にした一冊。そうか、以前は上下2巻だったけど、新装版は一冊になったのか。

 この本については以前長々と書いたので繰り返すのは止めるが、私が今回気になったのは本編ではなく、あとがきの金原ひとみの解説である。今、ネットで見ると、このあとがきを思いきり批判した文章に出くわすが、そうだろうか、私には相当に感じ入るものだったけど。

 金原ひとみの解説はこの小説が彼女にどういう風に“効いた”のかが正直に書かれていて好感が持てる。そして、失礼を承知で書くと“何か”から回復した人のレポートのようにも読める。

 一読して分かるのは彼女が反応した登場人物一人一人の言葉は一様に“曖昧なものを拒否”する姿勢に貫かれているという点だ。当たり前だが曖昧なものは人を不安にするし、長く関っていると確実に人から力を奪う。

 僕は狂っていない。みんなから嫌われて悲しいだけだーハシ。

 自分が欲しいものは何かわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることは絶対に出来ないーキク。

 まじめな女の子には魅力がないから、あたしはまじめになりたくないわーアネモネ。

 思うに金原ひとみという人は生来、物事を正確に見る力を持った人なのだと思われる。その視力はモラルとか常識とか世間など、訳の分からないものに曇らされていない。そして、そういう人は何故周りの人達が曖昧なものを曖昧なままにしておけるのかが理解できないし、そういう状態が不快だ。だから、学校にも行かず、親とも仲が悪く、煙草を吸ったりする。

 なんとなく感じてはいたけれど、良く分からなかったことが、あっさりと彼らの声を通して耳に入ってきた。(P564より抜粋)

 “感じてはいた”が良く分からなかった不定形なものに言葉=文学が形を与える。本来、言葉の力とうはそうしたもので、だからこの小説は彼女にとって、キクにとっての“ダチュラ”、ハシにとっての“心臓の音”のようなものだったのだろうと推測する。しかしそれは不良少女が更生したとか自閉症の患者が回復したとかの意味ではなく、強いて言えば自分の正体に気づかされた、と言うのに近いのかも知れず、このあとがきはそうした過程が綴られていて、本編と併せるとまるで入れ子構造になった作品の一部のようで素晴らしいと思った。

 弱虫め、僕は、ちゃんと生き返ったんだぞ。ハシが薬島で硬くなった赤ん坊を埋める時に呟いた言葉は、私自身に向けられていると感じた。(P565より抜粋)

 《盲導犬が僕の匂いに気付いて吠えてくれるまで待っていることはもうしないぞ》 ハシの決意は私の決意になった。(P566より抜粋)

 また、読後、罪悪感が薄れ、代わりに微かな全能感があった、とするころは、20年以上前に初めて私が読んだ時とほぼ同じ感想だったので驚いた。そうか、世代を超えてもこの小説はやはりこういう“効き方”をするのか。

 結局、家に旧版があるにも拘らず、私は今日、この新装版も買ってしまった。旧版の文藝評論家三浦雅士氏による解説も素晴らしい名文なので、我が本棚には今後ともこの二つの『コインロッカー~』が並ぶことになると思う。

              ☆

 さて、この休み中も東日本大震災からの復興と東京電力福島第一原発のことが頭から離れない日々であったが、一つはっきりしたと思うのは、この「復興」が「復元」ではなく、「転換」でなくてはならない、ということと、なのにこの国には今だ旧態依然としたシステムが力を増し存続していって欲しいとする勢力がいる、という点である。誰がウソをつき、何がウソだったのか、もうハッキリしたというのに。

 特に原発の事故に関しては深刻なデータをお茶の間に合うように矮小化し、何かを隠蔽しているような印象すら受ける。そして、何かに閉じ込められているような閉塞間がずっとあり、イライラする・・・のは私だけか。

 最後に、まるで新しい時代へのマニフェストのような金原の文章からの抜粋。

やがて真っ暗なコインロッカーに穴を開け、そこから一筋の光が差し込む時、私は外の世界の眩しさに顔を顰(しか)めるだろう。胎児が産道から頭を這い出した時のように、恐怖の中で光の強さに慄(おのの)きながらゆっくりと目を開け、それまでと違う世界を見つめるだろう。そして巨大な蜂の巣のようなコインロッカーから何人もの子供達が這い出してきた時、世界は鉄屑と化すのだ。”

~新装版『コインロッカーベイビーズ』 金原ひとみの解説より。

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Just passing trough~to Hans Coper

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       古代美術に触れ
       その作者にまで想いを馳せる人は稀だ
       まるで宇宙の創生から
       すでにそこに在ったかのような
       慎ましやかな
       作品(もの)たち

       一体、これまでどれだけの人間が
       この星を
       通り過ぎて行ったことだろう?
       無名性に没し その歓喜や苦難の 
       一切を語らずに

             ☆    

       
       How?の前に
       Why?
       人はとり憑かれたピアノの調律師のように
       幻の絶対音程に近づこうとする
       と 
       ハンス・コパーは言った
       だが
       聴診器をあて探り当てたのは
       狂った音階ではなく
       不思議な形をした
       自身の心

       ティッセル・フォーム スペード・フォーム
       キクラデス・フォーム

       「私の関心は実験や探検にあるのではなく
       本質をひき出すことだ。」

         
             ☆
   
       死後
       妻が最後の手紙を焼いたとき
       彼は本当に死んだ
       そして 無名に帰り 手に入れた
       “今”を
       古代人と同じやり方で
       未来に遺す術を       

 昨日は静岡市美術館へ「ハンス・コパー展」を見に行った。去年「ルーシー・リー展」を見た際、どうしても彼の作品も見たいと思っていたが、やっと見れた。

 5、7連は生前、自らの作品に関してほとんど何も語らなかった彼の、貴重な記述のアレンジ、引用です。(展示にはあったが図録にはないので、ネットで探したら、あった。コメント欄にコピペしておきます。) 

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