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FMあおぞら~苫米地サトロの手紙

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 あの津波は、町の堤防の大半を壊し、松林をなぎ倒し、家を流し、人を流しました。海の方角には真っ平らな風景が広がっています。吉田浜に僕の足が向いたのは震災20日目位でした。海岸までの道はすっかり変っています。柱と屋根を辛うじてぽつんと建っている最東の家の、さらに東にあったはずの十数件は跡形もありません。部分的に残っている堤防を横目に通り越し、砂浜を踏みしめました。足が水に触れてから海岸線で振り返り、西側を見ると、それは変わり果てた光景です。

堤防と松林がなくなったため、見えないはずの向こう側が見えました。

ありえない構図なので以前と比べることができません。

 変わったというよりも失ったというよりも、なんというか、存在しなかったものが現われたというような不思議な感じ。違和感。大きな違和感。

2011年8月6日(震災149日目) 苫米地サトロの手紙より

 友人の、宮城在住のシンガーソングライター、苫米地サトロから手紙が来た。A3の用紙を二つ折りにした4面に、ワープロで3/11から今日までの経過と心情が余す所なく書かれている。それにこの夏のライブ予定のチラシ。手書きで“ナヴィ村HPの第五福竜丸の話、読みました。ありがとう。とある。読んでくれていたみたい。嬉しい。

 彼の住む宮城県亘理郡亘理町は人口3万5千人で、今回の津波では250名以上の犠牲者があったという。手紙には被災直後から避難所でトイレ係をやっていたことや、そこで家族と再会したシーン、また孤立し憔悴する避難所暮らしの中、国道6号線に全国各地のナンバープレートをつけた消防車が集まっているのを見て、絶望が希望に変った瞬間などがリアルに綴られていた。

 その絶望が希望に変った瞬間の、国道6号の青空でした。

 僕は、あの青を一生忘れないでしょう。

 最初の太字の引用は文章を読めば分かる通り、震災20日目の亘理、吉田浜の風景。同じ東北沿岸部の風景としては先日震災156日目のいわきの海沿いを走った私の感想と似ている。“失ったというより、なにか存在しなかったものが現われたような不思議な感じ・・”それにしても、サトロさんは何故、そんな風に正確に言葉を使えるのだろう?

 彼の手紙にはその後の経過がさらにあり、なんでもカンパとして届いたお金で災害FM局を立ち上げたとのこと。FM局の名前は『FMあおぞら』。

http://www.hayashik.iii.u-tokyo.ac.jp/jp_news/community_media_disaster_report1/

 奥さんを含む数人のスタッフで運営しているらしいが、勤め先の福祉作業所との両立の日々がユーモラスに書かれている。

 3・4・5月はライブをキャンセルしていたみたいだが、6月からまた徐々に歌い始め、同封されていた予定表を見ると、この8月は大阪や広島と、また、旅の日々の送っていたようだ。ちなみに今週8/24は

 仙台市立某中学校PTA行事、全校生徒と保護者と職員対象。震災で校舎が使えず今でもずっと体育館で授業をしている学校なので、この日の会場は隣の某小学校体育館。非公開。講演頼まれたけどライブ、とある。

 手紙にもあるが最近は彼が主題歌を担当した映画『風のかたち』<伊勢真一監督 2009>の上映会とセットで回ることが多いようだ。http://youtu.be/FMEBlLEMB_Q

 で、手紙の最後の方にはこうある。

 ライブを解禁して『ラッキードラゴン』を歌うたびに、現実に少しずつ戻っていかないとなりません。放射能については、日々新たな問題が持ち上がってきます。放射能との長い付き合いに、覚悟してあたらないとなりません。

福島の子どもたちを守らないとなりません。

 情報を見極めないとなりません。

 私事になるが先日、民間団体による東京の放射能土壌汚染についてのデータの発表を受けて、自分の住む市の環境保全課にある提言と質問状を送っていたが、今日、その回答を受け取った。予想通りの結果だった。

 今日の東京の天気は雨のち曇り。今日、FM青空はどんな情報を発信しただろうか?

 サトロさんは被災した町にどんな曲をかけているのだろうか?

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