映画『ソーシャル・ネットワーク』~ディスプレイの向こう側へ
ブログを始めてそろそろ五年が経つ。そんなにやっていてもう誰も信じてくれないだろうが、私は元々こうしたネット通信やメール(携帯のメールも含めて)が苦手かつ、とても嫌いな人間であった。
数年前、イラクで人質のバックパッカーの青年が斬首される事件が起きた時、自己責任なる風潮がネットを含め、あらゆる場所で公然と形成されていく様に空恐ろしさを感じて、周囲にもっと人間味溢れるアナログなコミュニケーションを回復させるべきだと勝手に思い込み“ピースレーター”なる不幸の手紙の逆バージョンのようなことをして友人・知人に気味悪がられたりしたくらいだ。
ブログを始めたキッカケは友人や弟がその頃勤めていた塾のそれにコメントを送るうちに、自分ならこう使う、とか様々なアイディアが湧いてきたからだが、今、ブログの“バックナンバー”なる文字をクリックして最初に立ち戻るとある通り、一番の目的は自分の詩や小文を保存しておこうと言う、ただそれだけだった。
それで五年である。その前に3年連用日記を買ってきて、それを2冊、延々6年間毎日欠かさず付けていたことが下地としてあったものの、まさかこんなにやることになるとは思わなかった。時々、こんなことをしていて何になる?と思うこともあるが、このブログを通して疎遠になっていた昔の友人と再会したり、知人の死を知ったり、また、3/11の地震と原発事故の時は郷里の家族や友人の安否確認をしたりだったので、多少の意義を感じながら継続している。
何故、急にこんな初心を確認するようなことを書いたかというと、最近、ブログのみならず、TwitterやFace bookなど、こうしたソウシャルコミュニケーションのツールが様々に発達してきて、当初よりも重要度が増してきていると感じらるからだ。特に、最近、大手メディアのニュース・報道が著しく信頼を欠いてからというもの、このインターネットのみを“最後の砦”のように言う人もいる。
エジプトの“ジャスミン革命”やロンドンの暴動、リビアのクーデターまで、一説には金のないアメリカが効率良く軍事、もしくは革命後の整備に介入し儲ける事ができるようにと、TwitterやFace bookで扇動しているという話すらある。
私事ながら、4月に反原発のデモに行った時、周囲の人々が皆、携帯でTwitterを見ながら歩いていて「前方でこんな事が起きているらしい」とか、「今、1万5千人くらい・・・」とか言い合って歩いていて、デモ隊全体の動向をダイレクトに理解しながら歩くという、それは新しい体験でもあった。
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今日、レンタルしてきてFacebookの創始者マーク・ザッカーバーグの自伝映画『ソーシャルネットワーク』を見た。面白かったが、ただ少し冷静になって考えると、これはただ人と人とが出会うツールを考えた一人の青年がそれにより金持ちになったというだけの話だ。そして金とFacebook以外は全てを失ったという話でもある。彼は今では現代の英雄の一人ということなのだろうけど、彼といい、ビル・ゲイツといい、デジタル界の巨人達は皆、生身ではなんてコミュニケーション能力に難がある人達なのだろうか?(だからこそ、こうしたツールを生み出したのだと言えるが)。
映画は法廷劇の形でどのようにFace bookができ、その過程で何があったのかを検証していく形を取るが、見ていて感じたのは人には人を「データ」として扱いたいという欲望があるという事。逆にある種の人達はそうでないと人と関れない。そして、こうしたツールを使うことによって誰もがそうした傾向を強くしていくことになり、それは今起きているあらゆる出来事と無関係ではない。
私は今のところFace bookをやるつもりは無い。Twitterも一応やるにはやっているが、それはこのブログの呼び込みのようなものになってしまった。
映画のラストシーンについては書かないが、ただ感想だけ言うと、結局、生身の人間が最大のメディアだという事。いつまでたっても人間の最大の関心ごとは人間そのものであることに変りは無ない。そして誰もが本当はそこと繋がりたくてPCのこちら側から見えない誰かに手を伸ばしているのだという事実。
それは現在、このブログを書いている私も全く同様だ。どのようなキッカケであるにせよ、人と人が生身で出会うということがどれ程パワフルな出来事なのかを思い起こさせてくれ、これはあらゆる意味で今日的な作品だと思った。
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