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映画『一命』~この海老蔵を見ろ。

 1963年制作の小林正樹監督による『切腹』が日本映画の最高傑作だと言う人は意外に多い。去年、人に薦められるままにDVDで見て、私も大いに感銘を受けた。

 その後、リメイク版が作られているとの話からそのキャストを聞いて最初に思ったことは、千々岩求女(もとめ)の役が瑛太で良いのか?ということだった。

 『切腹』を見ていない人にはなんのこっちゃ分からないと思うが、映画の構造上、登場してすぐ観客が感情移入できてしまうような有名どころの役者が千々岩求女(もとめ)ではいけないと思った。別に瑛太が嫌いな訳ではない。

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 で、ずっとその辺りのことにこだわりがあり、昨日ついに『一命』を見たのだが、率直に言うと『切腹』が体面と倫理を重んじる武家社会の矛盾を告発するといったテイストが色濃かったのに対し、『一命』は家族愛、夫婦愛といったものに重きを置いた映画になっていた。そして瑛太のキャスティングこそが正に小林版と三池版との違いを分けるキーであった。私の疑念は偶然にも最初からピンポイントにツボを突いていたのだ。

 ストーリーについては今、ネット上でも様々な所で読めるのでそちらを見て頂きたい。きっと『切腹』を見た人はこの『一命』をけなし、この『一命』で初めてこの物語に触れた人はなんて痛く、暗く、救いようの無い映画なのかと思うだろう。

 個人的に『切腹』について言わせて貰うと、武士としての体面・倫理というものの欺瞞を告発するという形になっていつつも、当の求女も仲代達矢演じる半四郎も、結局は武士としての面目のために死んでいったように私には見えた。たとえ貧しい暮らしゆえの悲劇が発端になっているとは言え。

 しかし、『一命』での瑛太演じる求女と海老蔵演じる半四郎は両者とも「愛」の人である。一方は夫婦愛の、方や家族愛の。

 それは二つの映画での仲代と海老蔵の演技を比べれば分かる。仲代のそれは最初朴訥として徐々にふてぶてしく告発口調になっていくのに対し、海老蔵は一貫して静謐で、ただ疑問を投げかけるだけ。そして、時に激し、最後に大立ち回りがあるとは言え、その態度は愛に殉じようとしている者のそれだ。

 ・・・と、ここまで書いて本当の武士が果たして家族=女・子供のため腹を切ったり、お上にケンカを売ったりなどということがあったのだろうか?という疑問が沸くが、多分、無かっただろうというのが事実に近く、それどころかお上に言われれば女房、子供くらいはと言って切り捨てたというのが本当のところだろう。

 しかし、愛のために死ぬ武士というのを素直に信じさせるに足る映画の力が『一命』にはある。それは役者陣の力量もさることながら、偏に三池演出の才よるもので、『切腹』には無いシーンを細かく見ていくと、三池監督がこの社会告発の映画をいかに愛の物語に変えようとしたのかが分かる。そして、そのための瑛太=千々岩求女であった。瑛太、ゴメン。

 印象的なシーンは幾つもあるが一つだけ言わせて貰うと満島ひかり演じる妻美穂が草餅(か?)を食べるところ。伏線含め、近年、生き物としての人間をあんなに哀しくとらえたシーンはないと思った。泣けた。

 そして、最後に我が海老蔵。市川海老蔵は素晴らしい。

 この海老蔵を見ろ。

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漫画『ガラスの仮面』~永続するギターリフ

 

Photo_3「大人になったらエレクトリックギターを持とう」。昔、良く聞いたライブ版の中でニール・ヤングはそう言っていた。

考えるに大型バイクが大人の乗り物と言うのと同じ意味でエレクトリックギターも大人の楽器なのかもしれない。息子がハードロック大好き少年になった影響で、毎晩、様々な人達のギタープレイをDVDやYouTubeで見るにつけ、そんな風に考えるようになった。日々の雑事をしばし忘れ、大音量でこの楽器を自在に歌わすことができたならさぞ爽快だろうなと思う。まるで渋滞の首都高の車の隙間をオフロードバイクで駆け抜けていくように。

最近、仕事場で休憩時間に美内すずえの『ガラスの仮面』を回し読みしている。男のくせに私が全巻持っていると言ったら、貸してくれという人がいてそれで始まったのだが、この漫画は10年くらい前テレビドラマ化もされて、主題歌をB'zが歌っていた。B'zは特にファンということではないし、この曲も初っ端の松本のリフ以外は記憶に無かったが、印象は強烈で、ガラスの仮面、という単語を聞くだけで条件反射のように頭の中でこのリフがプレイバックされてしまう。

http://youtu.be/td8WGpkJt50

この漫画はなんといっても題名が良い。深い。まるで舞台芸術の本質をたった一言で言い表しているような言葉だが、もう少し突っ込んで考えるとこれは演劇化されてしまった現代の日常を言い当てた言葉でもある。日々、日常の演劇化の度合いが深まれば深まるほどに物語がリアルに迫ってくる。

 知っての通り、物語は『紅天女』なる幻の芝居の主役の座を巡って2人の少女が競い合うというものだが、2人がやっているのは演劇空間の中で本当の自分を探し出す、という事でそれは本来不可能に近い。しかし、そう知りつつも読み出したしたら止まらないのは、マヤと亜弓の闘いが、周囲の虚構を全て踏み越えて真実に触れようとする格闘に見えるからで、誰もが見につまされずにおれないからだ。

 私の予感ではこの物語は多分、終わらない。そして仮に、もし予定調和的な最終回というものがこの先あったとしても、読んだ人々の中で北島マヤと姫川亜弓は永遠に闘い続ける筈だ。まるで永遠に続くギターリフのように。

 と、いうわけで、ここ数日、私が囚われているのはグラミー松本のこのギターリフ、もう頭の中で超ヘビロテ状態。

 だ、誰か止めてくれ。

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