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年賀状の筆跡

 昔、刑事ドラマなどで良く見た“筆跡鑑定”というのは今でもやっているのだろうか?

 こうしてブログだ、Twitterだ、Face Bookだ、とやっているとつい直筆の文字がその人なりの個性を伝え得るものだということを忘れがちになる。

 去年は思いがけず多くの書をじっくりと見る機会に恵まれた。最初は夏に見た緒方拳の書画展で緒方の、次に『空海と密教美術展』における空海の、そして12月に『法然と親鸞~ゆかりの名宝展』で法然、親鸞の書をそれぞれ見た。一人は現代の役者であり、後はそれぞれ偉大な宗教家であるが、時代、立場は違えども皆、人間なのには変りはない。

 それと各寺を巡るたび、書いてもらうことを始めたご朱印帳の字。その字の上手下手が決してその寺の寺格をあらわすものではないけれど、貰うたびに様々な感慨がよぎる。

 先ほど挙げた人物達の中で私が一番心惹かれたのは後の3人には悪いが緒方拳の書である。しかし、これは役者という、言わば人を楽しませるのが商売である人が遊び心に溢れて書いたものなので、見て良くないわけがない。そもそも緒方には世間一般で言うところの“上手く”書こうという発想が無く、それゆえ孤独にたっぷりと浴し、自らも書くことを楽しみとした個性の書と言える。↓はネットで拾ったその書。

Photo_3 

 一方、空海、法然、親鸞のそれぞれの書については世間が宗教家としての彼らに対して持っているイメージそのままとの印象を持った。それともそういうイメージを持っているから書もそう見えるのか。

 空海は三筆の一人と言われるだけに書体も自在で達筆だった。が、私には超然とし過ぎていて何か近寄りがたく感じた。これは昔、どこかで三島由紀夫の直筆原稿を見た時に感じたものとよく似ていた。美しく、完全だが、それゆえに何処か人の血が通っていないような印象。

 片や法然の書はなよやかで、大らか、親鸞のそれは筆圧のある癖字で人間臭かった。

                  ☆    

 何故、急に書の話しなぞするかというとこの時期の年賀状。最近は宛名も文面も印刷で、直筆の部分は個々へのメッセージ的な一言だけというのが多くなったが、それでもその一言の部分は内容以上にその文字から何事かを伝えることが多い。年賀状だけの付き合いになってしまい、直接に会う時の感触を忘れかけた人でも、字がそれを思い出させてくれる事もある。

 近年、私は頂いたものに対する返信と言う形でしか年賀状を出さなくなったが、これは全く不徳の致す所。去年は写経を始め、今年こそは毛筆でなどと意気込んでいたが、不発に終わった・・・。写経は手本を筆で上からなぞっているのだが、その部分では“オレもなかなか・・・”と自画自賛し書き進むが、最後の願文、跋文の、自らの字体で書かねばならないところにくるといつも愕然とさせられる。それに怯んだ、というところもある。

 絵手紙作家小池邦夫と緒方拳の交流は25年間続いたと言うが、その間、二人が直接にあって言葉を交わすことは一度も無かったという。しかし、その間に二人の間を行き来した絵手紙の数々。こういうハガキを出せたらと、見るたびに憧れることしきりだが、道は遠い。

 デジタルばかりが強化されていく昨今、今年はアナログの部分もさらに、と思う。 

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