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映画『山椒大夫』~母に会いに

Photo  あれ、こんな話だったっけ?今年の年始、溝口健二監督の映画『山椒大夫』を見て、散々涙を搾り取られた後で私が抱いたのはそんな感想。まあ、それまでだってこの話についてそんなに詳しかったわけじゃないけど。

 それどころか、恥ずかしながらその時、私はこの安寿と厨子王の物語の始めがそもそも何だったのかを知った次第。

 それは彼らの父平正氏(たいらのまさうじ)が仏の教えを信じ、自らが治める領内の下賤の者たちに情けをかけたのが事の発端だ。領民に対しさらに重税を課すようにとの朝廷からのお達しにあえて背き、彼は官位を奪われ、筑紫の国へと流罪となる。別れ際、正氏は「慈悲の心を忘れてはならない。人は生まれながらにして皆平等なのだ。幸せに分け隔てがあって良いわけが無い。」と言って厨子王に形見として観音像を渡す。

 安寿と厨子王は母と共に遠国へ流されたこの父に会いに行く旅の途中だったのだ。越後の国に着いた時、騙され、さらわれ、母は佐渡へ、兄妹(原作では姉弟)は丹後の国の山椒大夫に売られ奴隷となる。ここから後の話はきっと誰もが知るところだろうけど、私が違和感を感じたのはそのラスト。

 http://youtu.be/dnDkCrLNsgo

 山椒大夫の元から逃れた後、国主となり、人買いを禁じ、奴隷を解放した厨子王は職を辞した後、母を捜しに佐渡へと渡る。そこで方々訪ね歩くが知っている人はなかなかいない。その人なら海に身投げして死んだ、と言われたり、一昨年の大津波(!)で流されてしまった・・などと言われる。そして、津波に見舞われたとする浜に降りた時、一人の老婆が口ずさむ歌が聞こえてきて、それが母の変わり果てた姿と知る。

 遊女にされた母は逃げられないようにと腱を切られ、既に目も見えない。厨子王が名乗っても、また私をなぶりものにする気だろう?と言って信じない。そして厨子王が例の観音像を手渡すと初めてそれが本物の厨子王であると知る。厨子王は言う。「父の教えを守り通すために、私は身分を捨てて参りました。お母さん、許してください。」それに対し母。「あなたが何をしたか知りませんが、あなたが教えを守り通したから、こうしてまた会えたのかもしれません。」

 そしてカメラはモノクロームの空へ、海へ。私には青い色が見えるようだった。そして、どこまでも青い空の上で誰かが人間の悲しみをじっと見つめているようだった。

                ☆

 この展開でいくと、この物語が一種の仏教説話的なものと見紛う。例えば『日本霊異記』中のそれのように。しかし、仏の功徳を説くにしては安寿と厨子王とその母が辿った運命は余りに過酷過ぎないか。父の教え=仏の慈悲を守ったことによる利益はただ、母に再会できた、だけだ。仏教説話としての落ち着きどころとしては少し無理がある。

Takasebune  これを信仰者の、信仰を持つが故の受難の物語と考えたらどうだろうか?そうした場合、私は仏教徒ではなくキリスト者たちを連想する。映画も観音像をマリア像に置き換えると良く分かる気がする。(映画は1954年ベネチア映画祭で銀獅子賞を受賞するが、西洋人にはさぞ良く理解できた話であろう)。そして原作はどうなのかと森鴎外の小説を読み、またその大元となる中世の語り芸、説経節の「さんせう太夫」について調べるうちに私は興味深い説に出くわした。

 それは安寿=エンジェル、厨子王=イエス、母正木=マリアとするもので、最後に正木が口ずさむ“安寿恋しや・・・”の歌は賛美歌なのだとする説。鴎外の小説と説経節「さんせい太夫」の大きな違いとして安寿の死があるが、小説では入水したことになっている安寿は、説教節「さんせい太夫」では凄惨な拷問によって死んでいるのだ。

 では何故、鴎外は入水としたのか。

 鴎外の出身地島根県津和野は「浦上四番崩れ」と呼ばれる日本の歴史上最大のキリシタン弾圧の配流地の一つ。幕末から明治にかけて起きたこの一連の事件を鴎外も知っていた筈で、さらにドイツでキリスト教文化に深く触れていた彼なら説経節「さんせい太夫」に隠された意味に当然気づいたに違いなく、その葛藤が小説『山椒大夫』を書かせたのだが、その時、彼は仏の教えの形を借り、その実万人向けのキリスト教的「献身」の物語にしようとして残虐シーンをカットし、結果、父達の原罪を昇華できず彼もまた同じ轍を踏んだ、ということだった。うーん、そうなのか・・・?

 調べるうち、今回初めて知ったのだが、我が郷里いわきには「安寿姫と厨子王の母子像」なるものがある。

 http://members2.jcom.home.ne.jp/70little_rascals0201/iwaki/iwaki/iwaki11/iwaki11-06.html

 由来を読むと、だいたい映画・小説のストーリーと同じで、キリシタン弾圧の話など微塵も無い。ただこうした場合、どちらが先なのかは分からなくて、説教節の話に似たような歴史が地元にあって、それでいつの時点かは知らないが町おこし的に「おらが町の話」にしてしまったというのも十分有り得る気がする。説経節「さんせい太夫」がどのような史実と接続されているのかはやはり不明という感じは拭えない。

               ☆ 

 去年の夏、私は津波の被害に見舞われたいわき七浜を車で巡ったが、その時、カーステレオでかけていたのはモーツァルトの『レクイエム』とポールマッカートニーがモノマネのようにして歌うエルビスの『That's alright mama』。

http://penguin-pete.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/2011812817-f1c3.html

『山椒大夫』の話を史実的に調べようとするとだいたい千年前のはなし・・・と始まるが、千年に一度と言われる津波に見舞われたいわきの浜は映画で厨子王が母と再会する佐渡の浜とだいたい同じようだった。

 どこまでも青い空の上で誰かが人間の悲しみをじっと見つめているようだった。

  あの時、私は母に会いに行ったのかもしれなかった。

  PS 説経節だとラストシーンも微妙に違う。いつか、生で全編聞いてみたいと思う。↓

  http://youtu.be/h4Zda2uhBHc

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コメント

ホントだ。溝口の映画のラストシーンは今観ると衝撃的ですね。鴎外は津波のことを書いてないのに。

安寿=アンジュ=天使というのは気がつきませんでした。鴎外は子どもたちに茉莉(マリ)杏奴(アンヌ)類(ルイ)なんて名前をつけている、そういうセンスを感じます。明治の大教養人ですからね。和魂洋才。浦上四番崩れがどれぐらい影を落としているか、安易に結びつけない方がいいような気もします。

きょうは図書館で鴎外の「山椒大夫」を読み返しました。文章がきれいですね。彼はこの作品を児童文学にしようとしていたらしい。残酷シーンをやわらげたのはそのための配慮のようです。
子どもの本を書いているぼくが言えるのは、わかりやすく普遍的なものを目指せば目指すほどカトリック的になるという事実です。カトリックは普遍を意味しますから。……あまり宗教臭く受け取ってほしくないんだけど。

安寿と厨子王が額に十文字の焼印を押される夢を見て、起きて見た地蔵の顔に十字が刻まれているというところにはキリシタン弾圧の遠いこだまが聞こえる気がしました。でも、侍女や安寿が自殺するのは非カトリック的です。

やはり一番気になるのは福島とこの物語の関係です。

投稿: 集平 | 2012年2月19日 (日) 23時25分

 集平さん、コメントありがとうございます。僕は昨日、図書館で『説経節を読む 水上勉』(新潮社)という本を借りてきて読み始めました。読後、どんな感想を持つか、楽しみにしながら読んでいます。

 森鴎外の文章はきれい。ぼくも『山椒大夫』を読んでそう思いました。なんだか読み辛いような印象を持っていたのですが。

 『ファウスト』は鴎外訳が素晴らしいとのことで、読んでみようと思いました(送っていただいたストラヴィンスキー『兵士の物語』楽しく、興味深く聞きました。詳しい感想はいずれ)。

 いわきの“ゆかりの地”の解説を読むと、姫塚というのがあって安寿姫の遺品を埋葬した塚、とされているようです。

 掘ったら何が出てくるんだろう?と商売柄、ムラッときました。

 

投稿: ナヴィ村 | 2012年2月20日 (月) 20時52分

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