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ナナオ・サカキの『ラブレター』

1_2  3・11から1年目にあたる今度の日曜日、チャリティを目的としたあるイヴェントで自作詩の朗読を頼まれたが、仕事が忙しく今回は辞退した。すると主催者のWさんから、自分で読むからぼくの詩を読ませてもらって良いか?とのメールを頂いた。もちろん、承諾したが、彼が選んだのは『Crystl Eyes』という詩。

 http://penguin-pete.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/crystaleyes-eaf.html

3年前、詩人ナナオ・サカキが亡くなったとのニュースを知人から聞いた直後に、俳句をひねるようにさっと書いた詩だけれど、丁度映画『大鹿村騒動記』を見た後なので少し驚いた。ナナオは大鹿村で亡くなったからだ。

 ナナオがどういう人だったのかをここで長々と書くことはしないけど、今も詩に書いた印象は変らない。十代後半の頃、ぼくはアメリカのビート文学にイカレテいて、その特集が組まれた雑誌などを読むとジャック・ケルアックやアレン・ギンズバーグやゲーリー・スナイダーの名と共にまるで伝説上の存在のように必ず彼の名が記されていた。世界中を徒歩で放浪し、詩を書き、日本のヒッピーの元祖と紹介されていた。詩壇からは完全に無視されているが、その詩は世界17カ国に翻訳されている。

 ぼくが初めて会ったのは大学の頃、東京国分寺でだったが、その後、共通の知人の葬儀やその回忌法要の席で顔を合わせるようになった。その方の命日が12月だったので、会うたびぼくは妻と一緒にまだ小さかった息子と娘にナナオを「あの人が実はサンタクロースなのだよ。」と言っては笑っていた。ナナオは小さな子供と遊ぶのが実に上手な老人だった。

 ナナオのホーム・ページを見ると、彼の詩が文字ではなく彼の朗読音声でコーナーが組まれていて、なんて正しい選択なのだろう、と思う。

 http://amanakuni.net/nanao/

彼の朗読を初めて聞いた時はへんな読み方だと思ったものだが、今は詩なんてこう読めばいいんだ、というようなお手本のようなリーディングだと思う。アクセントとか発音とかじゃなく、それは態度の問題なのだと。人や世界に対して自分がどれだけ心を開いているかという。

 故高木仁三郎はその著書「いま自然をどう見るか」に原子力文明からの転換を図る際に必要になるのは「自然に対する“感応力”=自然感受性」とでも呼ぶべき力だ、と述べているが、ナナオの詩をその肉声で聞くと、自然感受性とでもいうべきものを呼び覚まされるような気になる。ゲーリー・スナイダーが言う「野生」とはナナオのようなユーモアと知性のことだ、と思う。

 

 ↑は2009年のアースデイのクロージング・セレモニーに登場したナナオが代表作「ラブレター」を読む映像。ナナオというと多くの人がこの詩をあげるけど、他にも良い詩、面白い詩がいっぱいある。そして、ありがたいことにそれらの幾つかが今、上で紹介したホーム・ページで聞ける。ぼくは「数学よ、歩け」と「五番目の鹿」が好き。

 一般的に日本の詩人、作家、文化人はまだサムライ根性を捨て切れんでいる。自分はほんとうは百姓なんだけれど、ステージに上がると、サムライのつもりで話そうとする。すると声も自然に変ってくる。“オレはサムライだ、下々とおなじように話してはいかん、百姓と同じ言葉は使えん”と思っている連中が多いと思う。<中略>ぼくのは田舎の、山の民の言葉だ。ーbyナナオ・サカキ。1989年現代詩手帖2月号より

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