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風の力を知る

 カセットテープのインデックスを見ると2003年3月29日にオンエアされた佐野元春のラジオ番組「Radio fish」の特集は“風の力を知る”。確か一曲目はAssociationのWindyだった。

https://youtu.be/1xfJpPNg2SM

 ちょうどお台場に風力発電の風車が出来た頃で佐野自身がその風車まで取材に行った様子とその時来日していた環境学者レスター・ブラウン氏へのインタヴュー、またそれに併せて風を題材にした曲ばかりを集めた内容だった。

 この番組を聴いて、当時、まだ小さかった息子と娘を連れてこの風車を見に行ったっけ。反ブッシュだった自分はその頃、反米主義の立場を取っていてディズニーランドなどには行かず、子供をそんなところにばかり連れて行っていたのだ。子供達さぞつまらなかっただろう。

 今日、仕事を休み、ゆりかもめに乗って癌研有明病院に友人を見舞いに行った。段階的に入退院を繰り返しながら治療に励んでいる彼だが、数日前、ちょっと辛そうだと人づてに聞いてそれで行くことにした。しかし、会ってみると抗癌剤治療の一番辛い時期は終わっていたようで、思ったより元気そうだった。

 病室から談話室のようなところに行ってしばらく話したが、病室も談話室も窓からの眺めが素晴らしく、レインボーブリッジと紺碧の海、そしてその絵の中で上記したお台場の風力発電の風車がくるくると回っていた。

 片方の目を摘出し、また薬の影響でスキンヘッドの彼は昔のオーストラリアのバンド、ミッドナイトオイルのピーター・ギャレットのような風貌になっており、窓の風景をバックに語る姿はなかなかキマッテいた。私達は仕事の近況や昔の友人の事、食事について話したが、前回会った時と同様、見舞いに行ったつもりがまた自分の方が力づけられてしまった。

 本人も言っていたが、健康を損なうとそれまで気づかなかったことを知る。それは良く考えればシンプルな事実ばかりなのだが、普段、それが見えなくなっている私達はきっとそのシンプルな事実に励まされるのだと思う。

 途中、「お前にだから話すのだけれど・・」のような感じで、彼はある不思議な話をした。しかし、その内容は普段から私も感じている事だったので、別に突拍子のないものとは思わなかった。そうか、やはり・・・と思っただけだが・・・やはり詳しいことは言わずにおこう。

 彼に言わせると、車の運転にしても料理にしても、普段の当たり前の行為やその積み重ねである日常は、実はとても絶妙な均衡の上に成り立っているとのことだった。なんだか「ゲド戦記」の中のゲドの言葉のようだった。

平和というのはこういう日のことを言うのだろうな。窓の外で風車がくるくると回っていた。良い時間だった。

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『旅をする木』~春のナヌーク

Photo_2 宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」を読むたび、私が思い出すのは写真家・故星野道夫のことだ。童話の中で猟師小十郎は熊に殺されるが、最後の時、彼は熊のこんな声を聞く。「小十郎、お前を殺すつもりはなかった」。

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1939_18755.html

 「旅をする木」はアラスカやその他の素晴らしい写真を撮り続けた星野道夫のエッセイ集だが、中に写真が一枚も無いところがいい。そして圧倒的な静寂をくぐり抜けた彼の言葉は謙虚でわかりやすく、それはあたかも目の前で繰り広げられる自然の営為を言い表すことなどそもそも人間には不可能なのだと悟っているようでもある。

 本の題名の意味を調べていただければ分かると思うが、このエッセイの主役は「時間」だと思った。例えば、

 「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは天と地の差ほど大きい。」

 「全ての生命に平等な時間が流れている」とかの言葉。

 それは自然の中に身を置くことで導き出された言葉であると同時に、そうして生きることの先輩ともいえる先住民たちに影響されたものだと思う。プルトニュウムやセシウムの半減期の、その途方も無い年月を思う時、私達現代人はただ立ちすくむだけになってしまうが、彼らには時間に対して、さらにその上をいく思想がある。

 1996年8月8日、ロシア・カムチャッカ半島で星野道夫は熊の襲撃にあい死ぬが、本書のあとがきで作家池澤夏樹はその死を嘆かないことにしている、と言う。“彼の人生があの時点でクマとの遭遇によって終ったについては、たぶん自然の側に、霊的な世界の側に、なにか大きな理由があったのだ”と。

 童話「なめとこ山の熊」は熊たちが小十郎の死骸の周りに集まって祈りを捧げるところで終わる。賢治の文章では「回教徒(フィフィ)のように」となっているがこれはアイヌの熊送りの儀式イオマンテの逆バージョンだろう。

 この本を読み、また、星野道夫が残した写真の数々を見るたび、私は池澤の言う“霊的な世界の側の、なにか大きな理由”とは何かを考える。

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一つ to T.O


会話の中に挟まれた
漢詩の一行

憑かれたように写生した
北京の風景

半島の土に学んだ
白磁の碗

それらをもたらす霊感の総体を
あなたは
「一つ」と言った

愚かな行為に耽ることができる一方で
なんと美しいものを
作り出すのだろう
人間の手は
(それは はじめ 握手のために
差し出された手だった。)

その
慎ましやかなものたちを生み出すための
決して歴史には記述されない
友情と
時間

「美しいモノとともに生きれば
美しく死ぬことができる」by 岡倉天心

あれ以来
大陸の
どの街角にも
あなたの姿を見たという
人はいない

よく晴れた 休日の東京
飾られた扁壺(つぼ)の中で
夢は
実現している
というのにー

 

 

今日、東京国立近代美術館工芸館に『越境する日本人~工芸家が夢見たアジア1910s-1945』を見に行きました。 

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シネイド・オコナーの「I bive in you」

 昨日、フェイスブックになんの気なしに今やっているドラマ「Wの悲劇」で平井堅が歌う「Woman~Wの悲劇」を貼り付けたら、それは薬師丸ひろ子の曲だろう、というコメントを貰った。

 つまりオリジナルが良いかカヴァーが良いかというただそれだけの話だが、しかし、オリジナルのイメージが払拭されたとたん、その曲本来の良さが新たに分かるという事だってある。

 数年前、最も偉大なカヴァー曲は誰の何か?なるアンケートが某雑誌で行われていた。覚えているところで1位はジミ・ヘンドリックスによるボブ・ディランの「見張り塔からずっと」で、2位がガンズ&ローゼズによるポール・マッカートニー&ウィングスの「007・死ぬのは奴らだ」、そして3位がやはりガンズ&ローゼズでローリング・ストーンズのカヴァー「地の塩」だったと思う。確かにこの3曲ば、はすでにカヴァーした方の曲になちゃってる気がする。

 自分なら何を選ぶか?という遊びを頭の中でまたして、私が選んだのはシネイド・オコナーの『I belive in you』。原曲はボブ・ディラン。1992年のディランのデヴュー30周年記念ライブの時、彼女はある宗教上の問題を起こし大ブーイングで迎えられ、一人だけボブ・マーレーの「War」を歌う羽目になったが、もし、そんなことが無ければ彼女はあの時、この曲を歌う筈だった。

つい最近、彼女のニュースが聞こえてきて、何度か結婚を繰り返し、精神のバランスを崩しTwiitterに自殺願望のような書き込みをして本国で騒ぎになったらしい。写真も見たが、太って別人のようだった。歌のほうはどうなのだろうか。

今、ネット上の動画を見ていると彼女は実に様々の曲をカヴァーをしていて、ABBAの「チキチータ」なんてのもある。そして、あの声で歌われると全てがシネイド・オコナーの曲になってしまう。

それにしても素晴らしい歌声。完全復活を望む。

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猫語


猫は長くないので
とぐろを巻くというのはヘンな表現だが
ヒーターの前で
いつも気持ち良さそうに寝ているその猫は
確かに 
とぐろを巻いている
ように見える

今度生まれ変わったら猫がいいと
昔、ジョン・レノンは言ったというが
ぼくなら
優しい主人がいる家の
(できればきれいな女性が主人の家の)
 と いう条件を付けるな

昨日 雨の中
痩せて殺気だった目の
敗残兵のような猫に
コンビニのおにぎりをあげようとして
手を引っ掻かれた

猫にもいろいろあるのだ

最近、気がついた事は
女性はすべて
猫語を解する ということ
暑いのか
寒いのか
何を いつ
どう食べたいのか
皆 分かる
男が何を考えているか
さっぱり分からないと言うくせに
そのことを妻に言うと
「だって男は犬だから」
と一言

なあるほど
ぼくも早く
猫語が解るようになりたいにゃあ    

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