« 壁 | トップページ | TED~すごいプレゼン »

『カラマーゾフの兄弟』~始まりの最終楽章(コーダ)

Photo   ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を四半世紀ぶりに再読。昔と読後感が大きく違うのは年齢によるものか、それとも訳者の違いからくるものか。多分、その両方だろう。

 この小説を自分の人生の指南書としてことあるごとに読み返し、指針を得るとする人は非常に多い。知っているところだけでも言うと哲学者の梅原猛氏がそう。作曲家のマーラーがそう。

 自分にとってこれが今後そうしたものになるかどうかは分からない。が、読んでいて分からなかったところ、不可解なところが多々なので、それを分かろうとしてその都度手に取るということはあるだろう。なんにして読後、周りの風景がちょっと変わって見える気がするほど大きな読書体験で、そこは昔と変わらなかった。まだ少しグラグラする。

 この小説について何かを語るような能力も言葉も私は持ち合わせていないので、今回はこの亀山訳の各巻のあとがきと第5巻の小文によって知るところとなった事柄を備忘録的に記しておきたい。以前からご存知だった方もいるかもしれないが私にはそのほとんどが目からうろこのような話だった。四半世紀前、二十歳になったばかりの頃、初めて読んだ時に以下のようなことを私は何一つ知らなかった。

 1 この小説が4部構成+エピローグという形になっているということ。そして各部はそれぞれ3編で成り立っている。これはドストエフスキーが古典主義時代の交響曲の構成に強いこだわりがあったからだとのこと。第一部はアレグロ・コンブリオ(早くいきいきと)。父殺しのメインテーマが暗示され、なおかつ登場人物の紹介。第二部はアダージョ(ゆっくりと)。「大審問官」、「ゾシマの談話」はここ。第三部はスケルツォ(諧謔的に)。ドミートリーを中心とした章。大宴会、殺人、逮捕劇など。そして第四部がモデラート・マエストーソ(ほど良い速さでおごそかに)。対立する二つの精神による崇高な法廷劇、ミーチャは無罪か?有罪か?そしてエピローグの少年達とアリョーシャの例の美しい場面が最終楽章(コーダ)というふうになっている。光文書のシリーズは亀山氏のたっての要望で、この構成にこだわり、一部(一楽章)一巻づつとなっており、読むほうも非常に分かり易かった。

 2 この小説が未完だということ。ドストエフスキーは全部で二つからなる長大な物語を構想しており、この小説自体は第一の小説と呼ばれているもの。作者による前書きにも大事なのは第二の小説ほうと書かれていて、この小説の中の不可解なセリフ、登場人物などの多くは第2の小説の伏線であるらしい。第二が書かれていたらどのような物語だったのかは研究者によて諸説あり。

 3 この小説がドストエフスキー自身の自伝的要素が強いものだということ。彼自身の父親の農奴による殺害、癲癇の発作、作者自身が幼少期に過ごした土地の地名、何故、小説で殺される父の名がフィヨードルなのか?(フィヨードルはドストエフスキー自身の名)、何故、殺人者の名がスメルジャコフ(臭いにおいをはなつやつ=農奴という意)なのか?実の父が殺害された時、ドストエフスキーはどこにいたのか?五巻に収められた訳者解説で私が個人的に一番どきどきしたところ。

 4 この小説が口実筆記の方法で書かれたということ。私はフェイスブックにこの小説の読中の感想として「前回は硬質な文学作品として読んだが、今回はオーラルなフォークロアのよう・・・」などと書いたりしていた。それは訳者の違いによるものだと思っていたが、あながち間違った感想でもなかった。

 大きく以上なことがあげられるが、その他にもまだ興味深いことがたくさんあって、亀山訳以外で読んだと言う方も、どうぞこのシリーズの第5巻の小文だけでもご一読のほどを。

                ☆

 話は少し古くなるが毎年五月に恒例となったクラシック音楽の祭典ラ・フォル・ジュルネ(熱狂の日)の今年の親善大使は亀山郁夫氏だった。氏は音楽にも造詣が深くて、翻訳・出版に際し、上記した1の、この小説の交響曲的な構成に拘ったというところはうなづけるところだ。

 以下はラ・フォル・ジュルネ開催前、東京新聞に載った氏のインタヴューの引用。今、ロシアの作曲家の音楽を聴くことの意義について語っているが、ちょうどこの頃、私はこの大長編を読み始めて、だからそれはこの交響曲!としての『カラマーゾフの兄弟』を今読むことの意義、と言う風にも私には読めた。 

「作曲家が生きた時代を思い浮かべ、背景を意識すると、音楽を聴くときの感動が違ってくるんですね。その曲がただ美しいというのでなく、歴史の中のさまざまな人の見えざる姿、聞こえざる声が詰まっていると、感じられるんです。<中略> ロシアは第二次世界大戦のあとも、国家崩壊やチェルノブイリ事故などを経験した。積み上げたものが無に帰するような艱難(かんなん)の歴史の光景は、現代のロシア音楽の中にも表現されている。東日本大震災を経験した私たちの心にも、響くものがあると思います。」(2012.4.14東京新聞夕刊 亀山郁夫「溶け合う熱狂と郷愁」より)

 第2の小説が本来あったはずと言うが、私はそれは読者がこの小説のラストシーンから始まる物語を個々に空想するだけで良いのではと思う。

 この最終楽章(コーダ)は美しい。

|

« 壁 | トップページ | TED~すごいプレゼン »

Books (71)」カテゴリの記事

コメント

あの世紀末といわれた19世紀後半の時代、出てくるべきして出てきた小説という感じがする。フランスのランボー、ドイツのニーチェという人たちもこの時代を生きた。この時代の空気は、神はいるのか、それとも死んだのかではなかったかである。なにかの思想は突然生まれてくるわけでなく、それまであったことの行き詰まりのようなところから生まれるのではないか。アメリカでは南北戦争が始まり、カール・マルクスもこの時代に登場する。彼は神の存在を否定しなければ、スタート出来なかった。そんな中でのカラマーゾフの兄弟である。僕はそんなことを考えながら読んだ記憶がある。

投稿: じゃみん | 2012年5月24日 (木) 11時12分

 じゃみんさん、コメントありがとうございます。

 ランボーは砂漠の商人になって早死にし、ニーチェは発狂、マルクスは・・マルクス・ブラザースになったんだっけ??

 19世紀末には確かにそうしてムードがあったのでしょうね。

 今はどうか、と考えてしまいます。

投稿: ナヴィ村 | 2012年5月26日 (土) 07時23分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/186188/45357928

この記事へのトラックバック一覧です: 『カラマーゾフの兄弟』~始まりの最終楽章(コーダ):

« 壁 | トップページ | TED~すごいプレゼン »