『旅をする木』~春のナヌーク
宮沢賢治の童話「なめとこ山の熊」を読むたび、私が思い出すのは写真家・故星野道夫のことだ。童話の中で猟師小十郎は熊に殺されるが、最後の時、彼は熊のこんな声を聞く。「小十郎、お前を殺すつもりはなかった」。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/1939_18755.html
「旅をする木」はアラスカやその他の素晴らしい写真を撮り続けた星野道夫のエッセイ集だが、中に写真が一枚も無いところがいい。そして圧倒的な静寂をくぐり抜けた彼の言葉は謙虚でわかりやすく、それはあたかも目の前で繰り広げられる自然の営為を言い表すことなどそもそも人間には不可能なのだと悟っているようでもある。
本の題名の意味を調べていただければ分かると思うが、このエッセイの主役は「時間」だと思った。例えば、
「ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは天と地の差ほど大きい。」
「全ての生命に平等な時間が流れている」とかの言葉。
それは自然の中に身を置くことで導き出された言葉であると同時に、そうして生きることの先輩ともいえる先住民たちに影響されたものだと思う。プルトニュウムやセシウムの半減期の、その途方も無い年月を思う時、私達現代人はただ立ちすくむだけになってしまうが、彼らには時間に対して、さらにその上をいく思想がある。
1996年8月8日、ロシア・カムチャッカ半島で星野道夫は熊の襲撃にあい死ぬが、本書のあとがきで作家池澤夏樹はその死を嘆かないことにしている、と言う。“彼の人生があの時点でクマとの遭遇によって終ったについては、たぶん自然の側に、霊的な世界の側に、なにか大きな理由があったのだ”と。
童話「なめとこ山の熊」は熊たちが小十郎の死骸の周りに集まって祈りを捧げるところで終わる。賢治の文章では「回教徒(フィフィ)のように」となっているがこれはアイヌの熊送りの儀式イオマンテの逆バージョンだろう。
この本を読み、また、星野道夫が残した写真の数々を見るたび、私は池澤の言う“霊的な世界の側の、なにか大きな理由”とは何かを考える。
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コメント
はじめまして。
星野道夫は、撮影に行くとき宮澤賢治の本をよく持っていったそうですね。
投稿: 三浦博志 | 2012年5月16日 (水) 10時36分
三浦さん、こちらこそはじめまして。
賢治は世界の中において見てもとても稀有な、また不思議な思想家という気がします。
この記事を書くにあたって星野道夫について幾つかの文章を読みましたが、つくづく惜しい人を亡くしたと思いました。
投稿: ナヴィ村 | 2012年5月17日 (木) 05時30分