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さよならレイ・ブラッドベリ

Photo_6  レイ・ブラッドベリ死す。作家には一度魅了されるとその作品を全て読まないと気がすまなくなるタイプと、膨大な作品があると知りつつも一つの作品を繰り返し何度も読みたくなるタイプとの二つある。私にとって前者はイギリスの競馬ミステリーの作家ディック・フランシスで、後者がレイ・ブラッドベリだ。他の人は分からない。少なくとも私にとっては、である。

 

 私が繰り返し読んだレイの作品は「十月はたそがれの国」。これは短編集だから厳密には一つの作品とは言えないのかもしれない。全部で19編の小説が収まっている。そして本の題名が示す通りに、私はこの作品群を十月の、暑さがやっと和らぐ晩夏から初秋にかけての夜のひと時、開け放った窓からの風に吹かれ、鈴虫の声を聞き、ごろごろしながら読むのが好きだった。レイの魔法のような言葉を目で追いつつ、いつの間にか眠ってしまう。つまらないからではなくて彼の書く幻想が目覚めていても夢のようで、それがいつの間にか本当の夢になってしまう感じ。

 

 私がこの本の中で繰り返し読んだのは「みずうみ」と言う短編である。ページにして10ページ。読む時間なんてものの10分もかからない。私はもし“世界で最も短く、美しい短編小説は?”と聞かれれば間違いなく、いつでもこの「みずうみ」を挙げるだろう。レイ・ブラッドベリがどんなに素晴らしい作家かを知らない人に教えるのは簡単だ。この作品を教えればいい。

 

Photo_8   “波がぼくを、この世から、空とぶ鳥から、砂浜に遊ぶ子供達から、岸辺に立つぼくの母から切りはなした。やがてまた、波はぼくをかえしてよこした。空に、砂に、わめきたてる子供たちのもとへ”

 

 

何度読んでもため息がでるような書き出し。これは小説というよりは、良質の写真、あるいは詩に近く、もっと言うと音楽だと思う。そして音楽に耳を澄ませるようにして読み進めていくと、私たちはいつのまにか不思議な世界に迷い込み、哀しみのなかに置き去られてしまう。そして永久にそこから離れられないような感覚に陥る。そう、小説の中の、ずっと水の中にいたタリーのように。

                  ☆ 

今朝、レイの死を知って、昼休みに図書館に行って彼の未読の短編集「二人がここにいる不思議」を借りた。早速、第一話目の「生涯に一度の夜」を読み、後年まで彼の魔法が健在だったのを思い知った。そして、もう一つ「ゆるしの夜」を読んだ。素晴らしかった。これも短編集なので一話一話はすぐに読める。

 

 彼の死に際して新聞やネットではSF小説の巨匠とか、幻想小説の第一人者とか、詩人とか色々に紹介している。私は昔から、彼の言葉は魔法のようだと思っていた。魔法使いの死。私は今も彼のの魔法にかかりたくてこの「二人がここにいる不思議」を読んでいて、読み終わったらまた「十月はたそがれの国」を読むだろう。それが私の追悼の仕方。

 

「私はSF小説家ではない。一冊(『華氏451度』)以外は全て幻想小説だ。幻想小説は起こり得ないこと、SFは起こり得ることが対象だ。」(by レイ・ブラッドベリ)

 

 さよならレイ・ブラッドベリ。

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