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うなぎの話

Photo  先日見に行った歌舞伎『東海道四谷怪談』の三幕目・本所砂村隠亡掘の場での直助権兵衛は“うなぎ取り”だった。あんなでも商売が成り立つのだがら当時はさぞ天然のうなぎがそこかしこにいたのだろう。しかし、一度に大量に取れるものでもないと思うので、当時もやはり貴重な食材だったろう。

 そこのところが気になって調べると、江戸の頃、隅田川、神田川、深川などで上物のうなぎがたくさん取れたらしい。なあんだ。しかし、江戸も初めの頃はうなぎは下賎な食べ物で、がまのほ状に串に刺したものを焼いて味噌を付けて食い「まずくて仕方のないもの」だったとか。当時の金で一串16文、1文=20円として320円ほど。そばが一杯16文だったから、つまりはその程度の食べ物だった。

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 これが天明年間(1781~1789)に醤油、味醂、砂糖等の調味料が発達し、現在の蒲焼のようなスタイルが確立すると、一皿200文(4000~5000円)とたちまち高価なものになる。翻って「忠臣蔵」の外伝的要素が濃い「四谷怪談」の舞台は言わずもがなその約80年ほど前の元禄期。つまり直助権兵衛は下賎な食い物の下賎な食材を取るのを生業にしているということになり、それを知ると彼がどんな悪党なのか、さらに主人公の右衛門がどんなところにまで身を落としたのか分かるようで場に凄みが増す。彼らの「悪」のしぶとさとうなぎの生命力が重なって、まさに「首が飛んでも、動いてみせらぁ」なのだ。

 古典の中の「うなぎ」と言えばもう一つ、落語の『鰻の幇間(たいこ)』があるが、こちらは明治期の噺なので、さすがにもううなぎは芸人(実は詐欺師)と幇間(たいこもち)が酒の肴に喰う粋な食べ物ということになっている。芸人に食い逃げされ、店に置き去られた幇間はその後、半ばやけ気味に、一緒に出す新香や部屋の掛け軸、また酒器についても「こっちは伊万里でこっちが九谷・・・」と、薀蓄を垂れながら文句を言うから、本来ならこうあるべき、といったものがすでにこの時代には出来上がっていたことが分かる。

 少し話題は古いが今週の月曜日22日の土用の丑の日はうなぎを食べなかった。私が住む日野市のある地域には昔、多摩川の堤防が大雨で切れ掛かった時、大量のうなぎがやってきて身を挺して守ってくれたという伝承からうなぎを食べないとする地域があるが、

 http://ehon.hinoshuku.com/archives/page08/post-16.php

もちろんそんな理由じゃなくて、ただ高いから。それとちゃんと薬を飲まない私は例によってまた通風気味で食を控えていたということもある。しかし、思うに私が子供の頃はうなぎなんぞは年に何度か、それこそ大事な客が来た時とか祝い事とかの日に、ありがたがって、かしこまって食べていたもので(寿司もそう)、こうした手に届かない感じの方が個人的には本来の姿という気がする。

 因みに以前、土用にうなぎを食べないとする地区の古老に「じゃ、何を食べるのですか?」と聞くと、その人は「ようするに夏バテしないように精のつくものを食べりゃいいって考えれば、やはり肉。」と言っていた。その他、全国色々で、「う」の付く食べ物ということで、馬(うま)肉、牛(うし)肉、うどん、うめぼし等の例がある。

 芝居や映画に小道具として食べ物が重要な意味を持つ場合があるが、このうなぎのように描かれている時代によって意味する「格」が違う場合があるだろう。また古典においては何を意味しているのか現在では感知できないものもいっぱいあるだろう。今まであまり考えなかったが作者はそうした細かいディティールまで気を使っている筈で、それを考えるのも面白い。

 この7月は早々ととんでもなく暑くなり、仕事もいそがしくて首がついていても動けなくなる日が多かった。暑さは少し落ち着いたが、夏はまだまだ続く。

 二の丑の日の8月3日には何を食べようか。(写真は嘉永5年(1852)の江戸前大蒲焼 番付表。幕末の頃、江戸には221件の鰻屋があったとか。)

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