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Jヴィレッジと相馬焼

Photo  先日、短い帰省の際に残念だったことが一つあった。それは何件かのせともの屋を回ったが、相馬焼の湯飲みが買えなかったこと。相馬焼は今、原発事故の影響で場所を移し製作は続けられているものの、生産量が落ちて中々入らないのだと店の人は言っていた。

 江戸時代まで遡る歴史を持つ相馬焼だが、一つの典型を言うと、走り駒が描かれ、青ひびの、二重構造の湯飲み、というもの。やきものに興味のある人なら一度は目にしたことがあると思う。

 http://www6.ocn.ne.jp/~summy/souma/souma.htm

 江戸中期の藩の殖産政策の一環で始められた地方窯の一つだが、流通していたのは主に東北地方。だが、都内でも江戸遺跡を掘ると大量の肥前・瀬戸美濃産の陶磁器片に混じって、数は少ないながら出土する。私の手元にある『新宿内藤町遺跡に見る-江戸のやきものと暮らし』(東京都建設局・新宿内藤町遺跡調査会 1993)という冊子の中にも相馬系陶器ということで緑釉の土瓶の写真がある。

 相馬焼、というと私の場合、Jヴィレッジと天神岬公園の思い出と繋がっている。母の生前、帰省するとよく6号国道を海を見ながらのドライブに出かけたが、ルートはいつも「Jビレッジ」→「天神岬公園」→「相馬焼」の順だった。Jビレッジでサッカー選手たちの写真を見ながら食事して、天神岬公園でまだ小さかった子供達を遊ばせ、その後、相馬焼の名品を見て、買い物、というコースだった。あれは良いドライブだった。

Middle_1252554541_3  天神岬公園には出土品が国の重要文化財指定にもなっている弥生時代中期の集団墓跡があって、

 http://www.mahoron.fks.ed.jp/tenji/02_shitei_11_1.htm

 レンタサイクルで子供達が走り回っている時、私は良くその復元された墓に横たわったりしていた。岬の突端から見える藍色の海は美しく、静かだった。

 相馬焼の破片が出土した時のその見分け方というのを随分昔にある人から教わったことがある。詳しくは書かないが、割れた破片の断面を良く見ると胎土に特徴があるのだ、とその人は言っていた。

 相馬で焼かれていないのだからもう相馬焼ではない、と言う人もいると思うが、逆だ。その技法と精神が受け継がれていく限り、相馬焼は相馬焼だ、と私は思う。ただ、未来の考古学者はその胎土を見て分けるだろう。2011年以前と以降とを。そして、その大きな断絶を引き起こしたものに私はまた激しい怒りを覚える。

 今月22日の東京新聞の夕刊の一面には「福島・浜通り 民俗芸能150件窮地」なる見出し。記事には「避難先の学校などで、子供に伝統芸能を教えて復元につなげる取り組みも検討する必要がある。」との指摘があった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013112202000242.html

 民俗芸能もそうだがその土地土地にあった伝統的な産業もそうだろう。相馬焼に限らず、様々に継承されてきたものがその土地から切り離された。それをどうするのか。

 天神岬公園の現況をネットにアップされた写真を見ると、以前よりと荒涼とした印象を受ける。この事態を弥生の霊たちはどう見ているだろう?津波により景観も少し変ってしまったようだ。

 そして、Jヴィレッジは言わずもがな現在、原発収束作業にあたる作業員達の前線基地になっている。上述した記事が東京新聞に出た同じ日の“アプリシエイト・フクシマ・ワーカーズ”のホームページを見ると、募金により集まったお金で作業員のためのホッカイロ3万個が第一弾として送り届けられたようだ。

 http://yoshikawaakihiro.sakura.ne.jp/diary/pg144.html 

 この団体の活動の趣旨を読むと共感することが多い。原発事故の問題は現地だけの問題ではなく、作業員さんたちが仕事を終え帰宅する周辺の問題でもあるということ。そして、それを広げていけば、当たり前だが、これは日本全土の問題だ。

 相馬焼は現在、二本松などに窯を移し製作が続けられている。いわきの店で買えなかったものが、今、ネットや東京八重洲にある福島県のアンテナショップで買える。

 なんとアンビバレントな状況だろうか。

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