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誰か新撰組を歌舞伎にしてくれないだろうか?

20140202160206  先週の土曜日に続き、また「新撰組ふるさと記念館」に行ってきた。常設展示のコーナーをぶらぶらしていると展示解説の方に「この中で一番のお宝、何だか分かりますか?」と尋ねられた。分からない、と答えると、これです、とガラスケースの中の古びた墨書きの小冊子を指差す。プレートを見ると永倉新八の「浪士文久報告記事」なる文字。

 http://book.akahoshitakuya.com/b/4569603335

 永倉新八と言えば最強だったとも言われる新撰組・二番組組長。隊士の中で珍しく長命で、晩年は北海道にいて新聞記者らの取材に対し、新撰組についての貴重な証言を残している。維新後の世の中で逆賊扱いだった新撰組が名誉を回復したのには、この永倉の証言が一躍買っている。

 解説員の方が言われていたが、永倉証言にも新聞記者が聞き書きしたようなものは聞き手の創意や粉飾が混ざっているので信用できない部分が多いが、この「浪士文久報告記事」はまだそんなに時を経ずうちに永倉自身が書いており、新撰組関連の書物の中でも第一級の資料と言われているものらしい。

 しかし、これはその存在は知られていたが明治期に誰かの手に渡ってから長く行方が分からなくなっていたのだとか。そして、これが発見されたのはなんと平成10年(1998年)。大阪の古道具屋から出てきたと言うのだが、明治、大正、昭和、平成と時を経てやっと目に触れた永倉の文字は一目見て実直な男らしい印象だった。この「浪士文久報告記事」は今は書籍化されているとのこと。様々に脚色、劇化されてきた新撰組の「素」の姿がどんなものなのか分かるだろうか。読んでみようかと思った。

Happi_2  今日はその後、日野宿本陣にも行った。以前はここは蕎麦屋になっていて、私が日野に住み始めた頃に一度食べに来たことがある。しかし、例の大河ドラマが放送された頃と前後して日野市の指定史跡になり、そうなってから行くのは初めてだった。ここはよく歳三が昼寝した部屋というのが紹介されるが、今日、解説者の話を聞いて一番驚いたのはここの一室があの市村鉄之助をかくまった部屋であるということ。知らなかった。市村鉄之助とは函館戦争の折、戦列を離れ、単身日野村に歳三の遺品をもたらしたあの小姓である。彼を3年間かくまってほとぼりが冷めた頃、故郷に帰した経緯は司馬遼太郎の「燃えよ剣」に詳しい。

              ☆ 

 去年末から年始にかけて船橋聖一の「新・忠臣蔵」を読んだが、資料を駆使し、現地を踏査して史実と協調して書き上げられたそれを読んだ後、私が思いを巡らしたのは地元の新撰組のことだった。新撰組の浅葱色にだんだらのあの隊服は歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の討ち入りの衣装からヒントを得たのは有名だが、赤穂事件後、すぐ英雄になった四十七士に比べ、新撰組は長く逆賊であった。新撰組は歌舞伎にならないだろうか。私はそう思った。義経、平知盛、明智光秀、・・・・・・時の権力によって逆賊とされた人々のほんとうの声を彼方に聞く、歌舞伎をそうした芸能だと考えると、新撰組は歌舞伎そのものではないか。

 池田屋事件、近藤と土方の別れ、土方の死、名場面には事欠かない。今日もまた見たが、漫画、ゲームは今数え切れないほどある。「歌舞伎にはなってないですか?」と聞くと先の解説員さんは「無い」と一言。だが、その後、「でも、猿之助と中車がやればいいのに」と言っていた。私は勘九郎と染五郎がいいと思う。

 誰か書いてくれないだろうか?

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