先日、母の七回忌の法要もあって久しぶりにいわきに帰省した。遅れちゃいけないと念のため東京を早朝に出発したら驚くほど早く着いてしまい、時間を調整する術も無く方々を走り回った挙句、これを機にと思い広野町まで行ってきた。
福島第一原発の事故により広野町は一時全町避難とされていたが2012年3月に解除され、避難者の帰還が許されている。しかし、2012年の時点で全人口約5200人の内、戻っているのは約1350人とあるから、まだその時点では全体の1/4しか住人が戻っていない。現在もその数に大きな違いは無いと思う。国道6号線を走ると一見なんでもない風景だが多くの家々は無人で閑散とした印象。その代わりかつての民宿や店舗、その他、様々な建物の表には小さな土木・建築会社の名前の張り紙がしてあった。住民票を持たない作業員の数が約2600人とあるから町民より作業員の方が多い計算になる。
入ってはいけない場所に足を踏み入れたような気分を和らげてくれるように観光バスと何台もすれ違うがそのフロントガラスには原発の収束作業員達の何かのグルーピングを示すような表示があって行き先はJ・ヴィレッジ。かつてJリーガー達のキャンプ地であった場所が今は原発の収束作業にあたる人々の前線基地になっている。訪ねるも当然、関係者以外立ち入り禁止だった。
Apriciate Fukusima worker'sのホームページに詳しいが周辺は何件かのコンビ二が開いてる以外、目だった店もなくて、今後40年以上続くと言われている廃炉作業を支えるには不十分な環境であるのが見て取れた。
http://yoshikawaakihiro.sakura.ne.jp/pg47.html
無論、広野町だけで作業員達を受け入れておける筈もなく、南に位置するいわき市が今どういう役割を担わされている場所か肌で感じられた。
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久しぶりに兄・弟家族と会い、法要の後、良い時間をを過ごした後、ぼくが向かったのは小名浜に或る「味世屋」と言うラーメン屋。忘れもしない2011年の正月(!)、美味いという評判を聞いて家族で訪れた時、店は満員で、帰ろうとすると「もし、よければこちらで・・」と、なんと隣接するお宅の居間に通してくれたのだった。ご家族の遺影や何かのトロフィーが飾ってある棚を見ながら、炬燵で食べたラーメンの味は忘れられない。3・11後、YouTubeで津波の被害の状況を写した動画がアップされているのを見るにつけ、家族皆で「あのラーメン屋さん、大丈夫だろうか?」と口々に言い合っていたが、しばらくしてネットで再開した事を知り胸をなでおろしていた。いつか家族でもう一度行きたいと常々言っていた。
店の場所を忘れてしまい、娘のスマホをGPSにして辿り着いた味世屋は休みだった。見ると店構えは新しくなっていて、やはり、津波で多少なりとも被害があったのだろう。残念だが、まあ良い。また来て必ずあのラーメンを食べよう。人や風景が大きく変わっていく一方で、昔ながらのものがひっそりと息を吹き返していて、そうした場所が少しでもある内は故郷はまだ故郷なのだろう。
帰りの常磐道、頭の中で「福島」と「フクシマ」がせめぎ合う。
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