鬼平犯科帳(71)~鬼の世襲
最近、夜、ウィスキーをチビチビやりながらBSで古い「鬼平犯科帳」(71)を見るのを楽しみにしている。鬼平は八代目松本幸四郎。二代目中村吉衛門の実父。そしてこのシリーズでその後の鬼平、我らが吉衛門はまだその息子の辰蔵を演じている。そうか、「鬼平」は世襲だったのか。知らなかった。
先日見た巻では吉衛門=辰蔵は茶屋の娘に懸想して、その事が事件解決のキッカケとなるのだが、最後に父・幸四郎=平蔵に剣道の稽古にかこつけてぶっ叩かれていた。後のあの重厚な鬼平ぶりとの落差が面白かった。
引き続きまだ江戸遺跡を掘っているが、仕事で次の現場を言い渡される時、そこが都心だと、会社にある「江戸東京重ね地図」なるCDをいつも見る。
http://www.cd-v.net/rakugo/shoping/maker/app/edo/main.html
このCD、現代の地図と安政三年の古地図が重なっていて、バーをスクロールしていくと現代の場所が江戸の頃、どういう場所だったかが分かるようになっている。おまけに「鬼平犯科帳」の様々な場面が現在のどの辺りかが分かるようにもなっていて洒落が効いている。
今の現場は港区の魚藍坂のそばにあって「鬼平犯科帳」では九帖「泥亀(すっぽん)」にこの坂が出てくる。坂にある魚藍観音堂境内に茶屋を出している元盗賊の泥亀の七蔵が、昔の頭に恩返ししようとする話。痔持ちの七蔵はこの坂を上るのに難儀するが、痔持ちでなくてもこの坂上りきると少々、息が切れる。
現場は肥後細川藩中屋敷跡地内で、また坂を上りきって今度は伊皿子坂を降りていくと泉岳寺があるので、この地で江戸時代というとすぐ忠臣蔵を思い浮かべるが、赤穂事件が起きたのは元禄15年(1703年)で実在の鬼平・長谷川平蔵が生きたのは延亨三年から寛政七年(1746~1795)というからその差は約50~100年程ある。それで実際にあった事件とフィクションの世界を比べるのはへんだと思いつつ、出土する遺物を見て、昨日ふと内蔵助と平蔵のどちらの時代に近いかと考えてしまった。
古い「鬼平犯科帳」(71)は良いのだけれど一つだけ譲れないのはこのエンディングテーマ。これだけは自分が見ていたシリーズのものが脳内に定着していて、古いシリーズを見た後も“エア”で流れてしまう。現場は昨日でようやく半分終わった。あと半分。
最近のコメント