「きのね」~天からの合図
ここ数年、正月は長い小説を読んで過ごすのが通例になってしまった。今年は宮尾登美子の「きのね」。名優と謳われた第十一代市川團十郎とその妻をモデルに書かれた小説。評判通り、面白さに昼夜問わずのめり込み、上下巻を一気に読んでしまった。
第十一代市川團十郎と言うと、2年前に亡くなった十二代目の父で、当代海老蔵の祖父。で、主人公・光乃は当然、その母、祖母ということになる。女中の身から梨園の妻となり、生涯、陰で十一代目を支え続けた女性。小説的な誇張はあるものの書かれている出来事はほとんど事実だという。その上自分は中川右介著「歌舞伎 家と血と藝」(講談社現代新書)をそばに置いて、変名で語られる登場人物が誰なのかを一々確かめながら読んだのでフィクション的な味わいもあった。
フィクション、ノンフィクションを見定めするように読む醍醐味も自然出てくるが、恐れ入ったのが「聖母子」の章。
低迷していた雪雄=治雄(十一第目の本名)も戦後、爆発的な人気を得、世間的には独身で通しているため、産院に行くのを躊躇う光乃が一人便所で逆子を出産する場面。これ、本当だろうか?下巻の壇ふみのあとがきによると、宮尾登美子はこの小説を新聞連載中に、出産直後に十二代目の臍のを切ったという産婆さんに会うことができ、取材したというから・・・事実に近いのだろう。鳥肌が立った。
生真面目ゆへ不器用で癇癪持ちの雪雄と、運命に翻弄されながら時に雪雄の暴力にさえひたすら耐え忍ぶ光乃の関係は今なら不可解に映るだろうか。しかし、その果てにある男女の宿縁、離れられない二人のその繋がりの強さを不思議なものを見るように読んだ。初め、主従の関係で共に暮らしていた二人は、文字通り病に遭っては血を分け、戦火を、貧困を、また世間の目をかいくぐり、封建的な歌舞伎界、ひいては昭和の時代を生きぬく。
鋭利な感性とエキセントリックな面を併せ持つ当代海老蔵と、とてつもない忍耐と大きな包容力が魅力だった故十二代目。海老蔵は隔世遺伝で祖父ゆずり、十二代目はこの母の影響・・と勝手に納得した。
まだ女中奉公の身だった頃、雪雄に「どんな芝居が好きなんだい?いってごらん。」と聞かれ、「きのねでございます。芝居が始まる前の、あの音を聞くと身が引き締まります。天からの合図のようでございます。」と答える光乃が愛しい。きのねとは芝居の始まりと終わりに鳴るあの拍子木のこと。この答えを面白がった雪雄は光乃を「きのね」と綽名する。
今は年開けのきのねが鳴ったところ。正月に相応しい・・と言いたいところだが、言うにはあまりに余韻が大きい物語。今後、舞台を見る目が変わるだろう。海老蔵を見たくなった。
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