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約30年ぶりに恩師による映画の講義を受けた。

Photo_2  昨日、有明の武蔵野大学で約30年ぶりに恩師による映画の講義を受けた。「ウェスタンからハードボイルドへ~アメリカ国家建設神話の崩壊」。取り上 げた映画は「荒野の決闘」(1942年米 ジョン・フォード監督)と「チャイナタウン」(1976年米 ロマン・ポーランスキー監督)。

 「マカロニウェスタンには教会と学校がない」とは淀川長治の名言だが、本家アメリカの西部劇には勿論、教会と学校がある。ヒーローは荒野から町にやって 来て悪を倒し、秩序をもたらすとまた荒野へと去っていくが、その時、町には病院、教会、学校等(文明の象徴)が残されるのだ。映画「荒野の決闘」の主人公 ワイアット・アープの盟友ドク・ホリデーは医者だし、ヒロイン"愛しのクレメンタイン"は教師。建設前の教会における日曜礼拝でのあの有名なダンスシー ンでは星条旗がたなびいている。

 しかし、その後、西部劇が作られなくなって、代わって作られるハードボイルド映画では事件が収束(解決ではない)しても決して町に秩序はもたらされない。悪は居直って在り続ける。それどころか主人公ですら多少いかがわしい人物であり、ただ一線を越えそうなところをギリギリで自らの信条・哲学に踏みとどまるのだ(それによりさら悲劇が起きてしまったとしても)。

Photo_4  映画「チャイナタウン」でジャック・ニコルソン演じる探偵はかつてチャイナタウンで起きた出来事がトラウマとなっているが、それについては最後まで語ら れない。この物語には最初から空洞がある。だが映画にはシーンごとに様々な暗喩や散りばめられている。

 恩師は若い学生達に今回の都知事の不祥事を例に、ユーモラスに説明していた。事件には初めから空洞があ り、一応、収束はするが(決して解決ではない)、悪は居直って在り、町(東京都議会)に真の意味で秩序はもたらされない、我々はハードボイルドな世界に住んでいるの だ、と。

 昨日はどうゆうわけか打ち上げでぼくが恩師にカクテルを振る舞うことになっていたが、二人で「ギムレットには早すぎる」(レイモンド・チャンドラー著 「長いお別れ」の中のセリフ)を連発しながら原宿のレンタル・スペースに移動・・・だが最後には無事シェイカーを振れた。良かった。

 30年前、この恩師の授業をジャックして別の講演者を立てしまったりするふとどきな学生だったが、つくづく自分は損をしていたのだと思った。昨日、一回 分取り返した。来週は「ディア・ハンター」(1978年米 マイケル・チミノ監督)と「アメリカン・スナイパー」(2014年米 クリント・イーストウッド監督)。ヴェトナム戦争とイラク戦争について。講義があるのが平日で残念。

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宇多田ヒカルの「花束を君に」

 毎朝見ているNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」。宇多田ヒカルが歌うその主題歌が彼女の母・故藤圭子へのレクイエムだと最近気づいた。(世間の人には自明のことなのだろうか?だとしたら不覚)。テレビではワンコーラスしかやらないが通して聞くとその伝わり方が凄い。

 http://pvfull.com/utadahikaru/to-you-a-bouquet-of-flowers

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 宇多田ママの、そのデヴューに至るまでの壮絶な生い立ちとか全盛期の頃の様子とかは知らない。ただ子供の頃、家にアニソンのオムニバスアルバムがあり 「明日のジョー」や「巨人の星」等の歌に混ざって「さすらいの太陽」なるアニメの歌も収められており、その主人公は藤圭子をモデルとしていた。(それも後 年知ったのだが)。とにかくここではそのようなアニメが作られるほどママは空前絶後な人だったとだけ覚えておきたい。

 そして特定の故人に向けられて書かれた歌にせよ、それが普遍的な鎮魂歌になっているところは娘もさすが。加えてこの歌をさりげなく毎朝流しているNHK にも拍手。ここ数年起きたことを思えば、一見、日常にすっかり溶け込んでいる風のこのメメントモリな朝を自分は嫌いではない。

 「花束を君に」の「君」はかつての日本・・・・というよう風に自分は聴いた。それは貧しさの中を誰もが生きていた父母の日本。そして稀代の天才ポップ・クリエイターの中にその風景がしっかりと受け継がれていることを確認できて、毎朝密かな喜びを覚える。

 ・・・・と、昨日この小文を書いたが、今日は祖母の命日。合掌。

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The poet speaks ギンズバーグへのオマージュ フィリップ・グラス×パティ・スミスを見た。

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 フィリップ・グラス×パティ・スミスによるギンズバーグへのオマージュ(訳 村上春樹、柴田元幸)。「お経のよう」というのはネガティヴな意味で使われることが多い言葉だが、昨日のパティのリ―ディングはポジティブな意味で経のようだと思った。「ウィチタ渦巻きスートラ」「ひまわりのスートラ」。ギンズバーグの詩には「~スートラ」という題のものが幾つかあるが、スートラとは経典という意味。パティはカウンターカルチャーの渦中からこの時代の悪霊を鎮めるために使わされた魔女、いや高僧のように見えた。

 リーディングの合間にレニー・ケイのギターと娘ジェシー・スミスのピアノで数曲が歌われたが、昨日はモハメド・アリの訃報が伝えられたこともあり、彼に一曲(確かアルバム「Gone Again」の中の「Wing」)が捧げられていた。「彼は世界中の人々にインスピレーションを与える美しい男だった」とパティ・スミスは言った。

 そして最後にアコースティックな「People have the power」。小石を投げた水の波紋が最後に大きな波のうねりになるような演奏と会場。終わっても、雷に打たれたような、嬉しい困惑の中に置き去りにされたような気持ちだった。そして一夜明けてもその困惑はまだ続いている

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