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谷川俊太郎&Divaの朗読、ライブを聞いた。

 台風接近中の最中、家から近い日野市七生公会堂に詩人・谷川俊太郎さんの朗読&Diva(ご子息の谷川賢作さんのグループ)の歌のコンサートに行ってきた。谷川さんの朗読を聞いて干しシイタケが水に戻されたようなそんな心持になった。アンコールで『百三才になったアトム』を読んだ後に『鉄腕アトムのテーマ』(作詞/ 谷川俊太郎)と来て、何故か涙腺決壊。大雨の中帰ってきたが心はスッキリしていた。

 

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道を歩いて来たつもりはない
ただ歩いている足元を見つめていただけ
いつも見る足跡は今付けたただ一つ
道なき道を行ったとか
その足跡が道になったとか
そんなカッコイイ話じゃない
現に振り返れば初めの一歩は風雨に晒され
今は消えていて
微かに昨日くらいからの足跡が
消えそうに残っているだけ

道を歩いて来たつもりはない
ただ歩いている足元を見つめていただけ
この一歩の次はどちらへ
いつも迷っているのは次の一歩
ただ誰かが敷いた道を行くにせよ
歩くのは自分自身 この足 この足元の
線になることを拒否した一つの点 
だが その点が
いつしか地面から剥がれて
蝶のようにフワフワと舞い始めた

道を歩いて来たつもりはない
ただ歩いている足元を見つめていただけ
いつしか足は動いているのに
地上にもう足跡は残らない
自転車のペダルを漕ぐ感覚で
一足ごとにぐんぐん空に登っていく
生まれた町の 国の 星の
その表面にある 文明のひびのような
色々な道が
眼下に見えているだけ

川沿いの道 車が渋滞する道 
砂漠を貫く道 けものみち
掌に刻まれた
生命線

道を歩いて来たつもりはない
ただドスンと生まれ落ちたベッドの上から
いつか来た空への道を
いつも眩しく見上げているだけ

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中国の古いオカリナ

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 これが何かお分かりか。実は娘が先日また重慶に行っていて、一昨日、帰ってきたのだが、これは四月に自分が行った時に知り合った若いカザフスタンの友人達に託されてきた物の中の一つで中国の古いオカリナ。シュン(またはケン)という(らしい)。6300年の太古の昔からあるものだとか。でも簡単には音が出ない。

 最初「本当に笛なのかしらん?」と思う程だったが、ふーふーやっていると何回かの1回にとてもきれいな音が出て、今はその1回を楽しみにふーふーやっている状態。本当に上手な人の演奏はどんなのだろう?とYouTubeを見ると超絶的な演奏がいっぱいあって愕然とする。こんな風にいつか吹けるようになりたいなあ・・と夢見るが、ドレミ・・・のような音階を出す運指すらも分からない。吹けるようになりたいという思いもある一方、楽器としてとても美しいのでコレクション欲も掻き立てられる。元々は西安あたりの発掘の出土品だったらしく、ぼくの仕事を考慮しての贈り物だったのならなお嬉しい。穴の数は色々あるようで分からないことだらけ。誰か吹き方が分かる人教えて下さい。

↓は分かりやすいところで映画「天空の城ラピュタ」のテーマ「君をのせて」をこれで吹いている画像。穴の数が多いやつのように見えるが・・・良い。

        https://youtu.be/AUOp-TjqKOo

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映画「パターソン」を見た。

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 ジム・ジャームッシュの新作「パターソン」を見た。

 http://paterson-movie.com/

 ウィリアム・C・ウィリアムスとかアレンギンズバーグとか、またディランの歌で有名なボクサー、ハリケーン・カーター等、知った名前が出てきて身近な感じがした。そして見終わった直後から永瀬正敏演じる「日本の詩人」が連発する“a ha”が口癖のようになってしまった。詳しいうんちくは控えることとして、一つだけ感想を言えば、今度、犬を飼うなら絶対ブルドッグにしようと思った。

 上の写真はこの映画のパンフレット。シティ・ライツとかから出ている詩集のようで気に入った。“a ha”.

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その夜 ラ・カーニャで  2017.10.08

NAKED FOLK SINGERS-ギターをとって弦を張れ!-を見て
中川五郎さん 三浦久さん 若松政美さんへ


その夜のラ・カーニャは
沸騰する水を見るよう
子供の頃 キャンプファイヤーで
歌ってくれたお兄さんが
突如 現れ
あの頃の続きを今また歌い始めてくれたよう
お兄さんは年を取ったが 
ああ でも今は あの時より若い(1)

水は
西の広場の井戸から沸いた
ギターの音とことば
薬缶から"ピーっ!"と音がして
ことばから噴きあがるその水蒸気の斧が
神社の椎の木を
なぎ倒す幻をぼくは見た(2)


その夜のラ・カーニャは
水槽に水が溜まるのに見惚れるよう
細流はみるみる物語(バラッド)になって
ゆっくりと
人のたましいを満たす
年老いた旅の禅僧に
どこまでもついていく月  
ああ でも今は あの時より若い

水は
カリフォルニアの井戸から沸いた
ギターの音とことば
水槽に水があふれても
それを止めに走るひとは誰もいない
暗がりに立つ
美しい女の目から
涙がこぼれ落ちるのをぼくは見た(3)


その夜のラ・カーニャは
一杯の柄杓の水
夜勤明けのきみが 砂にまいた
柄杓の水
だがこの水は
ギターの音でもことばでもなくただの水
だが潤された砂は元の砂にあらず
砂に咲く花が
開くときの音をぼくは聞いた

その夜 ラ・カーニャで
その夜 ラ・カーニャで

 

 

(1) ボブ・ディラン 「My Back Pages」より。
(2) 中川五郎さんの「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」に歌われる朝鮮人虐殺の加害者を労うために立てられたという椎の木のこと。

(3)レナード・コーエン 「Bird on the wire」の歌詞からのイメージ

 

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ポール・サイモンの『オヴィアス・チャイルド』

 ポール・サイモンの『ザ・コンサート・イン・ハイド・パーク』を聞いている。夏にネットでこの記事を見かけてから、何度ここに貼られた動画を見ただろうか。http://www.sonymusic.co.jp/artist/PaulSimon/info/484392

 2012年に行われたライブのDVDが今年発売された理由は映像を見てすぐに分かった。多様性に溢れたパフォーマンスと音楽、そして観客。異なる民族文化を持つ人々と一時的に共演することはあっても、それを自らの楽曲に本格的に取り入れ、なおかつヒットさせスタンダードにした人なんてポール・サイモン以外にいないのではないか。

 

 時折、映される観客たちの表情がどれも感動的。「オヴィアス・チャイルド」の間奏のリズム隊のブレイクとその後に続く歓声は可視化された「グレイスランド(グレイスに溢れた土地)」だと思った。

 「楽隊の音は、あんなに楽しそうに、力づよく鳴っている。あれを聞いていると、生きて行きたいと思うわ!」 (友人のFBで紹介されていた今日の毎日新聞・高橋源一郎の人生相談からチェーホフ『三人姉妹』より) 

・・・・・・と、これを今アップした直後、Yahooに戻り、 ラスベガスのコンサート会場での銃乱射事件のニュースを見て衝撃を受ける。平和なコンサート風景が昔懐かしいもの・・のような世界にならないことを切に祈ります。R.I.P

・・・・さらに、トム・ペテイ死去のニュースも。2017年の10月2日はぼくら音楽好きにとって何という日だろう!

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ライヴ・イヴェント  NAKED FOLK SINGERS-ギターをとって弦を張れ!中川五郎×三浦久 10・08 下北沢ラ・カーニャ

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  うたうことば

 「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」。とはボブ・ディランのノーベル文学賞受賞記念講演の中のことば。しかし、ただでさえヒアリングの落第生だったぼくにとって、海の向こうの歌を聞くことは70%くらいは聞くものであっても、30%くらいは読むものだった。特にボブ・ディランやブルース・スプリングスティーン、レナード・コーエン等々、詞やメッセージに重きを置くアーティストの場合には尚更。そして彼らのうたを聞くとき、その「聞く」と「読む」の比率は時に拮抗してしまうことさえあったと思う。  

 中川五郎さんと三浦久さんはフォークシンガーであり、また共に歌の翻訳者でもあるので、今回の受賞に際して世の中が(そしてディランが)見せた戸惑いも、逆にその受賞の正当性も十分知っておられるだろうと思う。「私が書いているのは文学なのか?」と自問してディランは言うが、自らもステージに立ち歌うこの翻訳者二人も、こう思ったことはないだろうか?今訳しているこのことばは文学なのか?歌なのか?と。

 白状するとぼくがお二人の歌を聞いたのは、その訳業に親しんでから随分と後のこと。長い間、五郎さんも三浦さんもぼくにとっては歌の翻訳者としてあった。だから初めて二人の歌を聞いた時のストレートに言葉が耳に届く驚きといったらなかった。ディランやスプリングスティーンの歌を介してぼんやりと見えていたものが突然、ハッキリ姿を現したような、そんな感じがしたのだ。  

 五郎さんの「トーキング烏山神社の椎の木ブルース」をライブで聞いた時、ぼくはディランの「ハッティ・キャロルの寂しい死」等のプロテストソングを初めて理解した。また三浦さんの、市井にいる(た)人々の姓名が出てくる数々の物語風の歌を聞いて、スプリングスティーンのフォークアルバム『ネブラスカ』や『ゴースト オブ トムジョード』の中の歌たちが、海の向こうの人たちにどのように聞こえているのかを教えられた気がした。  

 「トーキング~」を聞いて、後日、僕は烏山に例の椎の木を見に行った。そして三浦さんの「カムサハムニダ イ スヒョン」を聞いて新大久保駅のホームに立ってみた。どれだけ時を経ても決して許されない差別への抗議の歌が、真昼の神社に静かに立つ椎の木の中にあった。また一人の青年が示した勇気を讃える歌が、電車が入ってくるJR山手線のホームのざわめきの中にあった。もしかしたらぼくらを取り巻いている風景、世界、それ自体が「歌」なのかもしれないとその時思った。  

 「アウトローは正直でなければ生きていけない」、「回り道をしない人生に何の意味がある?」「空ゆく鳥は空の鎖から自由だろうか?」・・・・ディランの歌にはその一行で人の生き方を変えてしまうようなフレーズがいっぱいある。それに比べると「歌は歌われるべきものであり、読むものではない」という、歌ではない彼の講演の中の言葉は一見ありふれている。でも上に書いたように「歌」の事を考えると、そのことばは違う意味を持って響いてくる。そして、「歌=フォークソング」としても良いのだが、五郎さんと三浦さんはそのようなフォークシンガーで、この不穏な時代に二人の歌を聞き共に歌うことは、それに対する一つの処方箋のように思うのだ。  歌の翻訳とは詰まるところ、一緒に歌うということではないだろうか?二人はずっとそれをやっててこられた。ぼくらはただそれを読んでいただけなのかもしれない。今こそぼくらも一緒に歌う時なのだ。Sing !

http://www1.ttcn.ne.jp/lacana/live/1212.html

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